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プロフィール
- 司馬懿とは
- 名門の家柄
- 曹操への出仕
- 蜀との戦い
- 公孫淵の征討
- 権力闘争
- 逸話
- 関連サイト
司馬懿(しばい)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達( ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を 宣帝と追号された。三国志では司馬 宣王と表記されている。
名門の家柄
| 河内郡温県孝敬里出身。 |
| 司馬防の次子で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卭の12世孫にあたる。 |
| 司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。 |
| 兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)、司馬恂(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)らがいる。 |
| 司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた(ただ単に八人の達たちということでなく、「八人の達人」という意味合いにかけている)。 |
| 息子に司馬師、司馬昭らが居る。 |
| 兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。 |
| 司馬懿は若年の頃から博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれていた。 |
| 『晋書』「宣帝紀」によると、司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。 |
曹操への出仕
| 建安6年(201年)、司馬懿は河内郡で上計掾に推挙された。 |
| 司馬懿の才能を聞いた曹操によって出仕を求められるが、司馬懿は漢朝の命運が衰微していることを知り、曹氏に仕えることを望まず、病気を理由に辞退した。 |
| 曹操は刺客を放って、「もし驚いて逃げるようであれば殺せ」と命じたが、司馬懿は臥して動かなかったために難を逃れた。 |
| その後曹操が丞相となり、懿を文学掾に辟して「捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕した。 |
| 『魏略』によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くのを恥に思い、仮病を使い杖をついた。 |
| 恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。 |
| 曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨て応じたともいう。 |
| 出仕当初は文官として公子たちに仕えたが、徐々に軍略の献策などで認められるようになる。 |
| 曹操が漢中を制した際、その勢いで巴蜀を平定するように進言したが、曹操は「隴を得て蜀を望む(望蜀)」ことはしない、と言って、この意見を退けたという。 |
| 建安22年(217年)、太子中庶子に任じられる。 |
| 曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒していたが、曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていた。 |
| 司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るにいたった。 |
| この頃、疫病で兄の司馬朗を失う。 |
| 建安24年(219年)、関羽が荊州から北上して樊城を陥れようとした。 |
| この時、首都の許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。 |
| 司馬懿は蒋済と共にそれに反対した。 |
| 孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すことを献策し、見事に成功を収めた。 |
蜀との戦い
| 建安25年(220年)、曹操が死去、曹丕が魏王に即位し、献帝から皇位を禅譲され、魏の皇帝になった。 |
| 司馬懿は曹丕に重用され、録尚書事・撫軍大将軍・仮節まで昇進した。 |
| 黄初7年(226年)、曹丕が死去し、曹叡(明帝)が皇帝に即位した。 |
| 曹丕が死ぬ際には曹真、陳羣、曹休と共に曹叡の補佐を託された。 |
| 曹叡は母后が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。 |
| このため、即位した曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。 |
| 同年、襄陽に侵攻した諸葛瑾、張覇らを徐晃らとともに破り、張覇を斬った。 |
| この功により驃騎将軍に昇進した。 |
| 太和2年(228年)、孟達が諸葛亮と内応して魏に叛いた。 |
| 司馬懿が赴任していた宛から孟達の任地である上庸までは、通常の行軍で1ヶ月はかかる道程であった。 |
| 司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか8日で上庸までたどり着いた。 |
| 城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反された。 |
| 司馬懿はこれを破り、斬首した。 |
| この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢の中枢は動揺した。 |
| その後の街亭の戦いでは『演義』と違い、史実では司馬懿は指揮に関与してはいない。 |
| 太和4年(230年)、大将軍に昇進した。 |
| 太和5年(231年)、蜀に対する戦線の総司令であった曹真が死んだ。 |
| 司馬懿はその後任として張郃、郭淮らを従え、諸葛亮と対戦する。 |
| 司馬懿は局地的に諸葛亮に敗れたが、蜀軍は食糧不足により撤退した。 |
| この際、司馬懿は張郃に諸葛亮を追撃させたが、張郃は射殺された。 |
| 『晋書』宣帝紀によれば、司馬懿は諸葛亮を追撃して大いに破った。 |
| 『三国志』には、司馬懿が諸葛亮を破ったという記述はない。 |
| 青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。 |
| この戦いで司馬懿は郭淮、辛らと共に防衛に徹した。 |
| 諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣するが病死し、蜀軍は撤退した。 |
| 蜀軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。 |
| 『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退する蜀軍に追撃をかけようとしたが、蜀軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。 |
| その事で人々は諺を作り「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言った。 |
| ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「生者を相手にすることはできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と言った。 |
公孫淵の征討
| 景初2年(238年)、遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられる。 |
| このとき明帝は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ね、司馬懿は「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。 |
| (公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と答えた。 |
| 司馬懿は毌丘倹、胡遵らとともに公孫淵討伐に出発した。 |
| 司馬懿が遼東に到着したころ、遼東では長雨が続いていたため、遠征はさらに長引くおそれがあった。 |
| 廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。 |
| 魏の征討に対し、公孫淵は呉に援軍を求めた。 |
| その時、孫権は「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。 |
| 司馬懿は野戦で公孫淵が派遣した軍勢を破り、公孫淵は籠城した。 |
| 司馬懿はこれを見て「兵力が多く兵站の確保が難しいときにはある程度犠牲が出ようとも速戦でかたをつけるべきで、逆に兵力が少なく兵站が安定している場合には持久戦を行うのがよい」と部下に語っている。 |
| 出征前、明帝に「反乱をどう平らげるか」と聞かれた司馬懿は「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、その他休養などに60日を当てるとして、1年もあれば充分でしょう」と答えており、事実、この通りに軍を動かし、公孫淵を破っている。 |
| 公孫淵は子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して逃亡したが、司馬懿は追撃して公孫淵親子を斬り殺した。 |
| 城は陥落し、司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り、遼東の制圧に成功した。 |
| 中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺し、京観を築いたという。 |
権力闘争
| 魏の景初3年(239年)曹叡が死ぬと、曹真の長男曹爽と共に次代の帝曹芳の補佐を託された。 |
| 『漢晋春秋』によると、曹叡は当初曹宇を大将軍に任じ後事を託そうと考えていたが、劉放と孫資の2人の進言により彼を罷免し、曹爽と司馬懿の2人に後事を託すことになったという。 |
| 権力独占を狙う曹爽の画策により、司馬懿は名誉職の太傅に転任させられた。 |
| ただし、軍権はそのままで、依然として対蜀漢の最前線を任されていたため、曹爽が内政、司馬懿が軍事を分け合う形になった(当初、軍権を保証するため大司馬を兼任させる予定だったが、不吉な先例があったという理由で見送られた「大司馬」が、司馬氏が皇室に迫る権勢であるかのように見えかねない職名であること(『三国志』曹爽伝・裴松之注の王沈『魏書』)、近年において大司馬に任命された者が、いずれも在任中に死去したこと(『晋書』宣帝紀)が理由に挙げられている。 |
| 正始2年(241年)、呉の朱然らが樊城を包囲すると、自ら進み出て軽騎兵を率いて救援におもむき、朱然を退けた。 |
| 『晋書』宣帝紀と干宝『晋紀』によれば、この戦いで司馬懿は朱然を追撃して、大いに破った。 |
| 『三国志』には、司馬懿が朱然を破ったという記述はない。 |
| 243年には呉の諸葛恪を撤退させた『三国志』諸葛恪伝によれば、孫権は占い師の占いに従い、諸葛恪の配置を代えた。 |
| これに対して、正始5年(244年)に曹爽が行った蜀漢出兵(興勢の役)は失敗に終わった。 |
| 正始7年(246年)の呉の侵攻では、曹爽は逃げて来た住民を帰すよう主張した。 |
| すなわち、李勝が見舞いのため自宅を訪ねてきた際、李勝が言ったことをわざと聞き間違えたり、薬を飲むときにダラダラとこぼすなどして、耄碌した姿を見せた。 |
| 正始10年(249年)1月6日、曹爽が曹芳の供をして曹叡の墓参りに行くため洛陽を留守にした機会を見計らって、司馬懿はクーデターを起こす。 |
| 司馬懿は郭太后に上奏して、曹爽兄弟の官職を解任する令を得た。 |
| 司馬懿は司馬師・司馬孚に洛陽の宮城を制圧させ、郭太后の令を用いて高柔・王観に命じて洛陽の曹爽・曹羲の陣営を制圧し、洛陽を制圧した。 |
| 司馬懿は蒋済とともに洛水の岸辺に布陣し、免官するだけだと曹爽を説得して、戦わずして降伏させた。 |
| しかし、1月10日、曹爽らに謀反の企みがあったとして、結局は一族郎党皆殺しにした。 |
| 嘉平3年(251年)、王淩らの企てた、楚王曹彪を擁立して曹氏の実権を取り戻さんとするクーデターを、密告により察知した。 |
| 魏の礎を創った曹操は、のちに西晋の礎を築く司馬懿に対して「司馬懿は誰かに仕えるような男ではない」と常に警戒していたとされるが、それが的中した形となった。 |
逸話
| 『晋書』宣帝本紀では、曹操がこの相を見て「この男性は遠大な志を抱いている」と警戒し、曹丕に「彼は心中に野望を秘めており、一介の家臣として終わるつもりはなかろう」と語ったという。 |
| のち、司馬氏の西晋を滅ぼした一人である後趙の石勒は、司馬懿が郭太后を利用したことを、曹操が献帝を利用したことに引き比べて批判している。 |
| 「大丈夫(立派な男性)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳(曹操)や司馬仲達(司馬懿)父子のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と、発言している。 |
| 小説『三国志演義』後半の主人公格である諸葛亮の最大のライバルとして、魏国の武将の中では曹操に次いで民間的な知名度は高い。 |
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