| 幼い頃から聡明で、司馬懿はいつも「この子は大器である」と言っていたという。 |
| また、司馬昭は自分の寝台を撫でて「ここは桃符(司馬攸の小字)の場所だよ」と言うほど、司馬攸を愛していた。 |
| 司馬師に男子が生まれなかったので、その嗣子となるも、255年に司馬師は死去する。 |
| 司馬攸はひどく悲しみ、その様子に人々は心打たれたという。 |
| その後も、義母の羊夫人に孝養を尽くした。 |
| 長じた司馬攸は、物静かで穏やかな人柄で、賢士に親しみ人を慈しんだ。 |
| また、学問を愛して文章にも巧みであった。 |
| 才能や人望は、兄の司馬炎に優っていたという。 |
| 成人すると散騎常侍・歩兵校尉を歴任し、五等爵が制定されると安昌侯に叙せられて衛将軍となる。 |
| 264年に司馬昭が晋王となると、その後継者として司馬炎よりも司馬攸を後継者に選ぼうとしたという。 |
| しかし、長幼の序を重んじる重臣一同の反対に遭い、実現しなかった。 |
| 265年、父・司馬昭が病死する。 |
| 病床の司馬昭は、司馬攸の前途を慮ると不安でならず、また兄帝に冷遇された曹植の境遇を思い出し、臨終の際に司馬攸の手を執って、司馬炎に預けた。 |
| 父を喪った司馬攸の悲嘆は一方ならず、心痛のあまり衰弱し、人々が食物を勧めても食べられなくなった。 |
| 母の王夫人は「もし他の疾を得たらどうするのですか。 |
| 一つのことを専守してはなりません」と諌めたが結果は同じで、ついに嵆喜(嵆康の兄)が「匹夫ですら命を惜しみ、先祖を祭ります。 |
| まして、天下の大業を担い、帝室を輔ける重任を負う身のあなたがそれでは、どうするのですか」と無理やり食事を食べさせた。 |
| 嵆喜が辞した後、司馬攸は「嵆司馬は、私に葬礼の節度を忘れさせまいとしたのだろうな。 |
| 同年、晋王を継いだ司馬炎は、魏の元帝から禅譲を受けて皇帝となり、司馬攸は斉王に封じられた。 |
| 直接に領国へ赴くことはなかったが、斉の文武諸官、士卒にいたるまで、きちんと給与を分配し、疾病や葬儀の備えに充てさせた。 |
| また、水害や旱魃が起きると施しを行って民を救い、豊年に上乗せすればよいとして租税の二割を減らしたので、民はこれを幸いとした。 |
| 当時、王族の衣食は国庫から出ていたが、司馬攸は自領の税収だけでまかなえるとして、支給を断ってくれるように上奏したものの、許可されなかった。 |
| 後に驃騎将軍に任じられ三公と等しい待遇を受けたが、司馬攸は慎ましい態度を崩さず、何事も信を以て当たった。 |
| また、公府が下級役人の動向に暗いのを嘆かわしく思い、信賞必罰を明確にして政事の引き締めを行ったところ、朝廷の内外は粛然とした。 |
| 後に武帝が驃騎の兵を罷免したところ、数千人もの兵が司馬攸を慕って去ろうとせず、武帝は再び兵を返還した。 |
| 司馬攸は政治に精励し、『晋書』は「攸、朝政の毎に大いに議し、悉く心して之を陳ぶ」と伝えている。 |
| やがて鎮軍大将軍に転任し、太子少傅を兼ね、ややあって太子大傅となる。 |
| 司馬攸は太子衷(後の恵帝)に向けて「……人を安んじ祀を承ぎ、祚は延び統は重し。 |
| 故に太子の立つを援く。 |
| ……夫れ仁に親しめば功成り、佞を邇づくれば国傾く。 |
| 故に保相の材は、必ずや賢明なるを択ぶ。 |
| ……親を固むるは道を以てし、恩を以て固める勿れ。 |
| 身を修むるは敬を以てし、尊きを以て託する勿れ。 |
| 自ら損なうは余有り、自ら益するは弥(いよいよ)昏し。 |
| 庶事に恤せざるを以てするは不可なり、大本に敦せざるを以てするは不可なり。 |
| ……」との箴言を与えた。 |
| 咸寧二年(276年)、賈充に代わって司空となる。 |
| 侍中を兼ね、また太子少傅は元のままであった。 |
| この年、母の王太后が逝去。 |
| 太后は自らの病篤くなったとき、病床に武帝を呼び、「攸は情の烈しい子ですから、そなたのことを冷たい兄だと感じています。 |
| 私がいけなくなった後、そなたと攸が相容れられなくなるのが恐ろしい。 |
| そなたに攸のことを託しますが、私の言葉を忘れてはなりませんよ。 |
| 」と泣きながら頼んだという。 |
| 武帝の晩年、その皇子たちはいずれも繊弱であり、朝廷の内外は司馬攸に期待を寄せていた。 |
| 中書監の荀勗、侍中の馮紞らは常々武帝に媚びへつらっており、司馬攸は平素から苦々しく思っていた。 |
| 荀勗と馮紞は、司馬攸が皇嗣となれば身の破滅であると恐れ、武帝に言った。 |
| 「陛下ご万歳(崩御の暗喩)の後、太子はお立ちになれません。 |
| 」武帝が「なぜだ」と問うと、荀勗は「百官はじめ、朝廷の内外は皆、斉王殿下に心を寄せております。 |
| どうして太子がお立ちになれるでしょう。 |
| 陛下が試みに、斉王殿下を領地へお出しになろうとなされば、必ず朝廷を挙げての反対に遭いましょう。 |
| それが、私の申し上げていることの印です。 |
| 」馮紞はまた言った。 |
| 「陛下が諸侯を領地へ赴かせ、五等の制を成そうとなさるなら、まずはご親族から始められませ。 |
| それには、斉王殿下より陛下に近しい方はおられません。 |
| 武帝は荀勗の言葉を信じ、また馮紞の進言を容れて、太康三年(282年)に司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命した。 |
| 司馬攸はこの措置に喜ばず、「私は、時代を正すには用済みとなってしまった」と言った。 |
| 太康四年(283年)、武帝は司馬攸の赴任のため盛大に文物を整えさせたが、司馬攸はこれが荀勗たちの策謀であることを知ると、怒りのあまり病を発した。 |
| 亡き母后の陵を守ること(=官を退く)を望んだが、武帝は許さなかった。 |
| しかも、武帝が派遣した典医たちは、武帝の意におもねって「王に病気はない」と偽って報告していたため、司馬攸の病は悪化する一方であったのに、進行を強いられ続けた。 |
| 司馬攸は無理をして威儀を整え、病で苦しんでいても日常と変わらぬかのように振舞った。 |
| このため、かえって武帝は、病ではないのではないかと疑った。 |
| それから間もなく、司馬攸は宿所で血を吐いて亡くなった。 |
| さすがに気が咎めたのか慟哭する武帝に、馮紞は言った。 |
| 「斉王は名が実に過ぎたのに、天下の心が帰しておりました。 |
| 今、王が自滅してくれたのは国家の幸いであって、陛下が悲しまれることではございません」 そこで、武帝は泣くのをやめてしまった。 |
| 『晋書』斉献王伝は、次のような文で司馬攸の人となりをまとめる。 |
| 「司馬攸は礼で以て自らを戒め、過つことはほとんどなかった。 |
| 人から書物を借りると、その誤写をきちんと直してから返した。 |
| 行き届いた性質は人に過ぎ、自分の諱に触れられると涙を流した。 |
| 武帝であっても弟を敬して憚るところがあり、必ず言葉を択んで発していた」。 |