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プロフィール
司馬昭(しばしょう、211年-265年)は、三国時代の魏の武将・政治家。字は子上(小説『三国志演義』では子尚)。 司馬懿の息子で、 司馬師の弟、晋の 武帝司馬炎の父。晋代に 太祖の廟号と 文帝の諡号を追贈された。
年譜
| 249年 高平陵の変。 |
| 父の司馬懿、兄の司馬師とともにクーデターを起こし、政敵の曹爽一派を失脚させた。 |
| 当初はこの計画を知らず、その前夜に初めて兄から伝えられたという。 |
| 曹爽らは間もなく一族皆殺しの刑に処された。 |
| 251年 父の司馬懿が亡くなる。 |
| 255年 寿春で毌丘倹と文欽の反乱が起こる。 |
| (毌丘倹の反乱)兄の司馬師が10万の軍勢を率いて討伐する間、中領軍の官職を兼ねて洛陽を守った。 |
| 乱の鎮圧後、兄が男子を儲けないまま亡くなったため、家督を継承した。 |
| 大将軍・録尚書事になる。 |
| 256年 大都督になる。 |
| 257年 寿春で諸葛誕の反乱が起こる(諸葛誕の乱)。 |
| 皇帝曹髦(高貴郷公)と皇太后を奉じて東征し、26万の大軍を指揮した。 |
| 翌年、寿春は陥落し、反乱を鎮圧した。 |
| 258年相国の官職、晋公の爵位、九錫を下賜するという詔を受けるが、辞退する。 |
| 260年皇帝(高貴郷公)が、司馬氏打倒のために挙兵する。 |
| 皇帝がわずかな手勢を率いて宮中を出たことを知ると、護軍の賈充に進軍を阻止するよう命じた。 |
| 宮殿の南門付近で戦いが起こり、皇帝は賈充配下の成済に弑逆された。 |
| この事件の後、挙兵を予め知りながら注進しなかった尚書の王経を処刑し、また、皇帝を弑逆した成済は一族皆殺しに処した。 |
| 成済に指示を与えた賈充は腹心であったため、罰しなかった。 |
| 新たな皇帝には曹奐(元帝)が即位した。 |
| 263年蜀討伐の軍を興す。 |
| 征西将軍鄧艾、鎮西将軍鍾会、雍州刺史諸葛緒に三方面から蜀漢を攻めさせ、間もなく滅ぼした(蜀漢の滅亡)。 |
| その間、相国・晋公・九錫を下賜する詔を受け、また丁重に辞退したが、朝廷内の強い要請もあり、6度目にしてようやく勅命に従った。 |
| 264年晋王の爵位を授かる。 |
| 265年 中風のために56歳で逝去する。 |
| この時は文王と諡された。 |
| 司馬昭は、兄の司馬師の養子になっていた三男の司馬攸に晋王を譲ろうとしたが、周囲の反対もあり、長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。 |
| 墓所である崇陽陵の場所は、史書に記載がなく長年不明であったが、近年河南省偃師市の沈頭山南麓に陵墓が発見されている(『中国文物地図集河南分冊』に記載あり)。 |
評価
| 兄と共に数多くの陰謀・政争を主導し、魏を簒奪する足場を固めたことから、陰謀家として非難されることが多い。 |
| また、司馬昭の側も批判に敏感に反応し、曹氏による反撃を警戒していた。 |
| 竹林の七賢の一人である嵆康が殺害されたのも、彼の夫人が曹操の曾孫に当たっていたことを警戒してのこととされる。 |
| さらに、皇帝殺害にも実質的に関わった。 |
| 『世説新語』によると、東晋の明帝が王導から簒奪の経緯を知り、顔を覆って「もし公の言った通りなら、どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」と言ったという。 |
| また桓温は、閑居しているとき己の生活を顧みて「わしは芳名を残すこともできず、かといって景文の臭も残せんのか。 |
| 」と嘆息したという逸話が残る。 |
| その一方で、簒奪を成功させた理由についても分析されている。 |
| 諸葛誕らの反乱を鎮圧した事後処理で、首謀者を処刑しただけで他は全て赦免した。 |
| また、呉より派遣された諸葛誕の援軍で捕虜となった者もみな赦免した。 |
| 習鑿歯は「これ以降、天下の人は(司馬昭の)武威を恐れると同時に徳義を慕うことになった」と評価している。 |
| また、正史の注『襄陽記』(これも習鑿歯の著)によると、263年の蜀漢攻撃について呉の朝廷では、中原の人々はまだ司馬昭に心服していないのに、司馬昭が遠くに出兵したことに関して、必ず失敗するだろうとの意見が多かった。 |
| しかし張悌は言った。 |
| 「曹操の功績は確かに大地を震わせたが、民はその威勢を恐れても、心従したわけではなかった。 |
| 曹丕・曹叡もそのやり方を引き継いだ。 |
| 彼等が民心を失ったことは久しからず。 |
| しかし、司馬懿父子は政権を掌握するとしばしば功を立て、政治の煩雑さと過酷さを除いているので、民が司馬氏に心を寄せるのだ。 |
| 淮南で三度(王淩・毌丘倹と文欽・諸葛誕)反乱が起きても、曹髦の死でも四方は動揺しなかった。 |
| 敵は容赦なく排除し、賢者を取り立てて本領を発揮させ、智勇を兼備していなければ、このようなことはできない。 |
| その威武は広がり、人々の気持ちも靡くため、簒奪という奸計も成算が立つのだ。 |
| その司馬氏が、民衆の疲弊している蜀漢に攻め込むのだから勝利は確実であって、たとえ負けても致命傷にはならないであろう」と主張した。 |
| 呉の人々は張悌を笑ったが、結局その通りになったという。 |
ことわざ
| 260年、司馬昭打倒の兵を挙げようとした曹髦は、諫める王経らに憤慨して「司馬昭の心は、路傍の人も皆知っている(司馬昭之心、路人皆知)。 |
| 吾は座して廃位の辱めを受けることはできない」と言った。 |
| この言葉は現在の中国では「権力をねらう野心家の陰謀はだれでも知っている」(『中日辞典』小学館)などの意味で日常的に使用される。 |
| 近年では、2008年3月30日、チベット騒動について中国の温家宝首相がこの表現を使った。 |
| 暗にダライ・ラマ14世を司馬昭に准えて非難したものといわれている。 |
后妃
| 王元姫(王粛の娘)-皇后を追贈された。 |
| その他に数人の側室がいる。 |
子女
| #武帝・司馬炎。 |
| #遼東悼恵王・司馬定国(享年3)。 |
| #斉献王・司馬攸(伯父・司馬師の猶子になる)。 |
| #城陽哀王・司馬兆(享年10)。 |
| #広漢殤王・司馬広徳(享年2)。 |
| #楽安平王・司馬鑒。 |
| #燕王・司馬機。 |
| #司馬永祚(早くに亡くなったので伝がない)。 |
| #楽平王・司馬延祚。 |
| 京兆長公主(平原侯であった甄悳の夫人の従姉(司馬師の娘)が亡くなり、その後妻になる)。 |
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2008年
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チベット騒動について中国の温家宝首相がこの... |
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