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プロフィール
- 司馬遷とは
- 宮刑事件
- 「任安に与うる書」
- 史記列伝
- 年表
- 参考文献
- 関連項目
司馬遷(しばせん、紀元前145年-?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。姓は司馬。名は遷、字は子長。司馬氏は周代の記録係の家系であり、父は前漢の太史令となった 司馬談。官名により太史公を自称する。娘婿は 楊敞( 昭帝丞相・安平侯)、孫は楊惲で『史記』を広めた。自身も父を継いで大史令を拝命、その職能・任務として、清時代まで使用された太初暦の制定を行なった。その後宮刑を受けるも(後述)、父の志を受け継いで歴史書『史記』を完成させた。
宮刑事件
| 司馬遷は太史令の任にあった際、匈奴との戦いで敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を、宮廷の中で唯一弁護したため武帝の逆鱗に触れ、即座に獄につながれ死刑を言いわたされた。 |
| だが、死刑を免れる方法として、多額の罰金を払うか、宮刑を受けて宦官になるかの二つの道があった。 |
| 富裕でなく、かつ誰からの金銭的援助も得られなかった司馬遷は、恥を忍んで宮刑を受け、宦官となった。 |
| 性器を切り取るというこの残虐な刑罰は司馬遷に多大な衝撃と恥辱を与え、人生観を一変させた。 |
| 2年後、屈辱を耐え忍びつつ宦官として宮廷に赴いて中書令となり、『史記』の執筆に全力を傾けた。 |
「任安に与うる書」
| 史記列伝・『太史公自序』では、宮刑事件に関してほとんど触れられていない。 |
| だが、司馬遷のありのままの心境を綴った物として、友人の任安に宛てた手紙が漢書司馬遷伝に残されている。 |
| 綴られた経緯と内容は以下に記す。 |
| 事件から幾年か後、司馬遷は、友人の任少卿が皇太子反乱事件に絡んで死刑を言い渡されたと伝え聞く。 |
| それより以前、任安から自分宛に、中書令になっても一向に賢人を推薦しない司馬遷を批判する内容の手紙が届いており、かつそれに返事をしていなかったのを思い出した司馬遷は、慌てて返事をしたためた。 |
| その書の中で、遷は自分の考えをのべている。 |
| 「本来自分は死を恐れない、あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単な事だったが、もしあの時死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。 |
| 死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのです。 |
| 自分が死んでしまえば史記を完成させることが出来ない、仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とするところでした」と述べ、更に「そもそも宦官として生き恥を晒している自分が賢人を推薦するなど滅相も無いことであったのです。 |
| 今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、この本を完成させて原本を名山に納め、副本を世に流布させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまいません。 |
| 今まで返事をしていなかったのを、自分と同じ境遇に陥った任安に司馬遷は慌てて手紙をしたためた。 |
| その時彼は何を思って手紙を書いたのであろうか。 |
| 我々の想像を絶するところである。 |
| この手紙(『報任少卿書』)は、名文として『文選』にも収録されている。 |
史記列伝
| 『史記』において、司馬遷の考え方・思想がもっとも反映されているのが列伝であると言われている。 |
| そもそも「列伝」という個人を主題とした歴史記述方法が司馬遷独自のものであった。 |
| そして司馬遷以後、中国の歴史記述方式の標準が紀伝体となった。 |
| なぜ司馬遷はこのような記述形式を採用したのであろうか。 |
| 「任安に与うる書」や「太史公自序」、「伯夷・叔斉列伝」などの司馬遷の言によれば、「残さなければ歴史の波の中に消えてしまう個人の業績・行動、善行・悪行を書き残すことが自分の使命だ」という。 |
| 司馬遷は列伝を書くにあたって、最初に伯夷・叔斉を、次に管仲と晏嬰とを置いているテキストによって順序の違い有り。 |
| 史記索隠、史記正義本等においては老子列伝が巻頭である。 |
| これら4人は、生きていた時代が古いから巻頭、という見方もできるのだが、それだけではない。 |
| この4人は全て君主に対して強い諫言を行って、かつ君主に殺される事の無かった人たちなのであった。 |
| これらの古人と自分、古の君主と武帝を引き比べて思うところがあったのだろう。 |
| とりわけ、伯夷・叔斉列伝における記述は列伝全体の冒頭を為す伝として、非常に格調高く、痛切な内容である。 |
| 「世の中では悪行の限りを尽くした人間が天寿を全うし、行いに気をつけて、正しいことを正しいと言う人物(例えば伯夷・叔斉や顔回)が突然不幸な目に遭って死んでしまうことが数限りない。 |
| 一体全体、天が示す正しき道などこの世に有るのだろうか?(いや無い)。 |
| 善行を行った人物で歴史に残らなかった人物は数限りない。 |
| これらの人物は、孔子の様な人物に紹介されてやっと後世に名前を残してもらえるに過ぎない。 |
| 彼は怒りと情念を込めて、無名のまま死んでいった人々の代弁者として、歴史・人物を書き残すことの決意表明をそこに述べているのである。 |
年表
| 年齢、事跡と年代については異説が多数あり。 |
| 紀元前145年1歳、夏陽県竜門(現在の陝西省韓城市)に生まれる。 |
| 紀元前140年5歳、父司馬談が太史令に任じられ、父と共に長安へ。 |
| 紀元前135年10歳、父から古典を学ぶ。 |
| また、董仲舒らに師事。 |
| 歴史書『春秋』は政治の根本原理を体現したものだと主張する公羊学派の影響を受ける。 |
| 紀元前126年20歳、南方に遊ぶ。 |
| この頃の体験は『史記』の鮮烈な描写に生かされている。 |
| 紀元前124年22歳、帰京。 |
| 紀元前110年36歳、武帝、封禅の儀を挙行、父の司馬談が死去。 |
| 『史記』の完成を託される元封1年=紀元前110年史記年表参照。 |
| 司馬談は封禅の年に死んだと太史公自序に書いてある。 |
| 紀元前108年38歳、太史令に就任(司馬貞「史記索隠」に引く晋の張華「博物志」の説)。 |
| 紀元前104年42歳、改暦を監督し、太初暦を制定・施行。 |
| 紀元前99年47歳、友人の李陵を弁護したため武帝の怒りを買い、投獄される(史記年表参照)。 |
| 紀元前98年48歳、宮刑を受ける。 |
| 紀元前96年50歳、大赦により出獄。 |
| 紀元前91年55歳、皇太子反乱事件。 |
| 友人の任安へ手紙。 |
| 『任少卿に報ずる書』(史記年表参照)。 |
| 紀元前90年56歳、匈奴列伝における李広利将軍についての記述。 |
| 司馬遷最後の記述か?少なくともこの年まで司馬遷は生きていたと思われる(王国維「太史公行年考」の説)。 |
| 司馬遷は生地に葬られたとされ、陝西省韓城県には司馬遷祠廟と墓が建立されている。 |
参考文献
| 伊藤徳男『史記と司馬遷』 山川出版社。 |
| 藤田勝久『司馬選の旅』 中公新書。 |
| 宮崎市定『史記を語る』 岩波新書、のち岩波文庫。 |
| 武田泰淳『司馬遷史記の世界』 講談社文庫、のち講談社文芸文庫。 |
| 林田慎之助『司馬遷 起死回生を期す』 集英社、のち集英社文庫。 |
| 加地伸行『「史記」再説 司馬遷の世界』 講談社現代新書、のち中公文庫。 |
| 司馬遷『史記』 小竹文夫・小竹武夫共訳、ちくま学芸文庫全8巻 。 |
| 司馬遷『史記列伝』全5巻、『史記世家』全3巻、小川環樹ほか訳、岩波文庫。 |
| 司馬遷『史記列伝』全2巻、貝塚茂樹・川勝義雄共訳、中公クラシックス・中央公論社。 |
| 『中国古代の歴史家たち-司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』 福井重雅編訳、早稲田大学出版部。 |
関連項目
| 司馬遼太郎-司馬遷にちなんだ筆名。 |
| be-x-old:СымаЦянь。 |
| zh-classical:司馬遷。 |
| zh-min-nan:Su-máChhian。 |
| zh-yue:司馬遷。 |
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