| 現在は廃業)-->などをした。 |
| 府中町立府中小学校出身(宇梶剛士も2年まで在学で先輩、竹原慎二は後輩になる |
| 広島の男子進学校である修道中学校時代から水球の選手として活躍し、修道高校時代には世界ジュニア水球選手権大会の日本代表。 |
| また2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれたほどの逸材で、最年少日本代表としてイタリア・エジプト遠征にも参加した。 |
| なお、広島屈指の進学校である修道中学校を受験した理由は、「制服の袖の部分に2本の白線があり、それがカッコよかったから」。 |
| 合格したものの授業についていけず、いきなり落ちこぼれたとメディアでも語っている。 |
| しかも、いざ入学するとその2本の白線で、修道中学校生だと判ってしまい、悪いことが出来なかった為、嫌いになってしまったそうである(入学後は、その白線を物と擦って消していたそうである)。 |
| バンド活動(EIGHTCITYSFISHBAND/通称:はまちバンド)も平行して行っていたが、佐野元春のコンサートを見て、カルチャーショックを受け音楽一本に絞る。 |
| 「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーを考えた吉川は、「まずはスカウトされること」と考えたが、田舎でスカウトされる筈も無く、シビれを切らして渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」などと自ら手紙を書き送りつけた送り主は女子高生という設定であったため、文面は女子言葉だった。 |
| 渡辺プロの関係者が、高松の松本明子を見に行った帰りに、本当に会いに来てくれて、その後の数度のオーディションを経てナベプロ入り合格の理由は吉川の才能というより、吉川の観客動員力。 |
| 吉川のはまちバンドはアマチュアながら、広島のホールを満杯にする程の人気があり、主力スタッフ・歌手の独立が相次ぎ、凋落していたナベプロにとってその観客動員力は大きな魅力だった。 |
| 実際は高校を卒業してからという話だったが、吉川本人の「今すぐにでも」と言う話で、修道高校を中退して上京。 |
| だが、すぐにデビューさせてもらえる訳でもなく、当時のマネージャーの部屋に居候し、ダンスのレッスン代わりに新宿、渋谷、六本木のディスコで毎日踊り、当時最先端の音楽、ファッション、踊りを身につけた。 |
| しかしいつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし、社長室に直談判したところ渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなった。 |
| 実際には渡辺プロは吉川を「10年に1度の逸材」とみなし、凋落していたナベプロの起死回生のために社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクトチームを編成するほどの力の入れようだった。 |
| 「ナベプロ帝国の興亡」軍司貞則著、文藝春秋(1995年)によると、その当時渡辺プロの金庫には3億円の現金しかなく、渡辺晋は30人ほどのスタッフとの会議において、その金で吉川を売り出す方法をひねり出せ、と迫った。 |
| 映画と歌の同時デビューも並々ならぬナベプロの肝いりで実現した。 |
| 大澤誉志幸が「渡辺プロは総力を挙げて吉川晃司を売り出すから、お前にかける金はない」と、ナベプロのスタッフから言われたという逸話も残るアサヒ芸能2010年11月25日号、70-73頁。 |
| 1984年2月1日シングル『モニカ』でデビュー。 |
| この曲は、主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあった。 |
| その後『サヨナラは8月のララバイ』、『LAVIEENROSE』、『ユー・ガッタ・チャンス』(オリコン3週連続1位)、『にくまれそうなNEWフェイス』(オリコン1位)、『RAIN-DANCEがきこえる』(オリコン4位)、『キャンドルの瞳』(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリースし。 |
| 1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。 |
| 翌1985年暮れにはNHK紅白歌合戦に出場した。 |
| またこの年の始めに、デビュー1年目では史上2人目の日本武道館公演を行った。 |
| 1人目は原田真二(1978年7月24日 |
| その他、初期に行われた学園祭コンサートで、体育館にある緞帳(どんちょう)にぶら下がり、緞帳をビリビリに破いてしまったことがある。 |
| その弁済金は1,000万円だったという(本人が『笑っていいとも』に出演した際に告白し、「緞帳を破って100万円の借金を作ってしまった」と言っていたが、その後ファンクラブの会報誌で「1,000万円」と訂正した)。 |
| 1988年に一時活動を停止した後、渡辺プロダクションから子会社独立と言う形で、マネージャーの河村嚴生氏が代表取締役社長のセブンスエンタープライズ所属になる。 |
| レコード会社を東芝EMIに移籍。 |
| 元BOØWYの布袋寅泰とユニット「COMPLEX」を結成し、翌1989年4月にシングル『BEMYBABY』(トヨタ・セラのCM曲)をリリース。 |
| COMPLEXは『BEMYBABY』を含め2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースした(いずれもオリコンチャート1位を記録)後、1990年11月8日の東京ドームのライブをもって活動を停止。 |
| ビジネス的なことにはまったく興味がなく純粋にロックがやりたかった吉川と、音楽をビジネス面も含めてトータル的に捉える布袋との間に徐々に溝が生まれ、最後は飲み屋でのつかみ合いの喧嘩に発展して活動停止に至った。 |
| 布袋、吉川はそれぞれ、当時の音楽雑誌のインタビューで「COMPLEXさえ組まなければ、少なくとも友人を失う事はなかった」とコメントしている。 |
| 1997年に、東芝EMIから、元同社専務取締役である石坂敬一が代表取締役に就任したユニバーサルグループに移籍。 |
| しかしこの時期の音楽業界に吹き荒れた外資の嵐と変革の混乱の中で売上が低迷。 |
| その後2002年に徳間ジャパンへ移籍。 |
| 自身設立のアクセルミュージックエンターテイメントは1998年設立。 |
| 前所属のセブンスエンタープライズで、会社スタッフによる会社資金の使い込みが発覚。 |
| 事務所の空中分解という状況で、セブンスエンタープライズの音楽部門若手スタッフを引きつれ設立という経緯である。 |
| 本人曰く「他所に世話になるなんて考えられなかったので、自分について来てくれる会社の若い連中もいたし、仕方なく自分で会社を立ち上げざるを得なかった。 |
| 今では立ち上げて本当に良かったと思っている」。 |
| ちなみにセブンスエンタープライズ俳優部門は金山一彦、つみきみほ達で新たに立ち上げている。 |
| 1998年、自宅で知人と殴り合いになり、鼻骨および肋骨を骨折させる傷害容疑で、示談は成立していたが書類送検された。 |
| 原因は、酒に酔った知人が吉川所有の尾崎豊の形見のギターを蹴った事による。 |
| 謝罪会見では、前所属事務所セブンスエンタープライズの会社スタッフによる資金使い込み騒動の真っ只中でもあり、真実をありのままに述べられない状況下での謝罪会見になった。 |
| この会見で記者の「何発殴ったのか?」との質問に、一方的に殴ったわけじゃなく殴りあいになり、相手もボクシングの経験があると前置きした上で、「ワン、ツー、スリー?」と答える。 |
| この3発のパンチを打つ動作を確認しながら「こう、こう、こう、うん、3発殴った」「僕はちょっと人より力が強いみたいで..」などと発言したシーンがTV放送で流された。 |
| 2006年にDJ TASAKAとKAGAMIによるテクノユニットDISCO TWINSのアルバム『TWINSDISCO』にて『JuicyJungle』『ThunderStorm』の二曲にゲストボーカルとして参加。 |
| また『JuicyJungle』のPVにも出演した。 |
| このPVはSPACESHOWERMusicVideoAwards07でBESTIMPACTVIDEO賞を受賞。 |
| 授賞式ではスペシャルゲストとして登場し、DISCO TWINSと共にライブパフォーマンスを行った。 |
| またDISCO TWINSとのユニット「DISCOK2TWINS」を結成しシングル『JuicyJungle』を発売した。 |
| 2009年のNHK大河ドラマ『天地人』(主演:妻夫木聡)に織田信長役として出演。 |
| 同年に、徳間ジャパンコミュニケーションズから古巣であったユニバーサルミュージックに移籍。 |
| また、『仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイドMOVIE大戦2010』に、主人公の師である鳴海荘吉(仮面ライダースカル)の役で出演。 |
| 2011年5月31日にファンクラブのページにて一般女性との結婚を発表。 |
| 翌6月1日に、婚姻届を提出。 |
| 二人の間には既に第一子も誕生しており、未婚の父であったことも明かした。 |