| 1929年(昭和4年)11月28日、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林にて父・敏雄、母・せいの長女として出生。 |
| 1930年(昭和5年)4月、栃木県宇都宮市二条町二丁目13番地に転居。 |
| 1934年(昭和9年)4月、栃木県宇都宮市西大寛町に転居。 |
| 1936年(昭和11年)4月、宇都宮市西原尋常小学校に入学。 |
| 1936年(昭和11年)7月22日、東京府東京市目黒区中目黒三丁目に転居。 |
| 1936年(昭和11年)9月、二学期から目黒区立油面尋常小学校に転校。 |
| 1937年(昭和12年)9月、東京府東京市目黒区下目黒四丁目に転居。 |
| 1939年(昭和14年)1月、鹿児島県鹿児島市平之町上之平50番地に転居。 |
| 鹿児島市立山下尋常小学校に転校。 |
| 1941年(昭和16年)4月、香川県高松市寿町1番地に転居。 |
| 高松市立四番丁国民学校に転校。 |
| 1942年(昭和17年)3月、高松市立四番丁国民学校を卒業。 |
| 1942年(昭和17年)4月、香川県立高松高等女学校に入学。 |
| 1942年(昭和17年)9月、東京都目黒区中目黒四丁目に転居。 |
| 東京市立目黒高等女学校に編入学。 |
| 1947年(昭和22年)3月、東京都立目黒高等女学校を卒業。 |
| 1947年(昭和22年)4月、実践女子専門学校・国文科に入学。 |
| 1947年(昭和22年)6月、父の転勤に伴い一家は宮城県仙台市に転居。 |
| 邦子は通学のため東京都港区麻布市兵衛町(現六本木一丁目)にある母方の祖父母の家に下宿して学生時代を過ごす。 |
| 1950年(昭和25年)、財政文化社に社長秘書として入社。 |
| 1952年(昭和27年)、新聞の求人欄に「編集部員求ム」の広告を出していた雄鶏社に応募し採用され、雑誌『映画ストーリー』の編集に従事するかたわら市川三郎のもとで脚本を学ぶ。 |
| 1960年(昭和35年)、同社を退社後、フリーライターとして独立する。 |
| 1962年(昭和37年)「森繁の重役読本」脚本。 |
| 1964年(昭和39年)、東京都杉並区の実家を出て港区麻布霞町(現:西麻布)で独立生活を始める。 |
| テレビドラマ『七人の孫』脚本。 |
| 1969年(昭和44年)、父・敏雄が心不全のため急逝。 |
| 1970年(昭和45年)、東京都港区南青山五丁目へ転居。 |
| 1971年(昭和46年)、テレビドラマ『時間ですよ』脚本。 |
| 1974年(昭和49年)、テレビドラマ『寺内貫太郎一家』脚本。 |
| 1975年(昭和50年)、乳癌の手術を受ける。 |
| 術後は輸血による肝炎と右腕が動かない等の後遺症に苦しめられる。 |
| 1976年(昭和51年)、銀座百点に『父の詫び状』を連載開始する。 |
| 1977年(昭和52年)、テレビドラマ『冬の運動会』『だいこんの花パート2』脚本。 |
| 1978年(昭和53年)、妹の和子と小料理屋「ままや」を開店。 |
| 1979年(昭和54年)、テレビドラマ『阿修羅のごとく』脚本。 |
| 1980年(昭和55年)、短篇の連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回直木賞を受賞。 |
| 1981年(昭和56年)8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。 |
| 1983年(昭和58年)、向田の功績を記念して優れた脚本に対して与えられる「向田邦子賞」が創設された。 |
| 1998年(平成10年)、「ままや」閉店。 |
| 2008年(平成20年)、母・せい逝去。 |