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董卓
友達
中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨&27950;の人。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅(『英雄記』)。母は池陽君。兄に董擢(『英雄記』)、弟に董旻... |
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中国後漢末期、三国時代の武将。字は文遠(ぶんえん)。雁門郡馬邑県(現/山西省朔州市朔城区)の出身。子は張虎、孫に張統がおり、兄に張汎がいる。『三国志... |
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中国後漢末期の政治家。字は子師。呂布と共謀して董卓を殺害するが、その部下に逆襲されて殺害された。王宏の弟(盧弼の『三国志集解』)。子は王蓋・王景・... |
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後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。... |
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『虎牢関』という演目は前回に紹介した 『斬華雄』 の後、すぐに起こった物語です。主人公の呂布は三国時代の猛将です。呂布は内モンゴルの出身で、字(あざ... |
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中国後漢末から三国時代の武将。呉に仕えた。字は幼平。九江郡下蔡の人。子は周邵・周承。 |
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曹仁
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プロフィール
- 呂布とは
- 董卓政権下
- 董卓暗殺
- 中原を彷徨う
- 徐州を支配
- 最期
- フィクション
- 三国志演義
- その他
呂布(りょふ、?-建安3年(198年))は中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。五原郡九原県(現在の内蒙古自治区内)の人。『後漢書』巻75「 劉焉袁術呂布列傳」第65、『三国志』巻7魏志「呂布伝」に列伝がある。戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇った。『三国志演義』等、三国志関係の物語等では最強の武将として描かれる。
董卓政権下
| 呂布は勇猛を買われ『三国志』魏書・呂布伝「驍武をもって并州に給す。 |
| 」并州刺史の丁原が河内に騎都尉として駐屯していたときに主簿として仕えた。 |
| 丁原は呂布を個人的に親愛したという。 |
| 中平6年(189年)、霊帝が死去すると、宦官の十常侍と外戚の大将軍の何進が洛陽を舞台に政争を繰り広げた。 |
| 丁原は宦官の殺害を計画した何進と共謀し、執金吾に任命され軍隊を率いて洛陽に入るが、このときに呂布も同行した。 |
| 何進と十常侍が共倒れとなると、丁原は中央の権力獲得を目指す董卓と衝突した。 |
| 董卓は丁原の軍勢を奪うため、その殺害を目論むと、その下にいる呂布に謀反をもちかけた。 |
| 誘いをかけられた呂布は丁原を斬り、その首を持参しそのまま董卓に仕えた。 |
| 董卓は呂布を非常に重用し、養子として信頼の厚さを示した。 |
| 呂布は董卓により丁原が就いていた騎都尉に任ぜられ『三国志』魏志・呂布伝「刺史丁原、騎都尉となり、河内に屯す。 |
| …卓、布をもって騎都尉となし、これを愛信し、誓いて父子となる。 |
| 」、まもなく中郎将に累進し、さらに都亭侯に封じられた。 |
| 呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢時代に活躍した李広になぞらえて飛将と呼ばれていた。 |
| 絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺警護させた。 |
| 191年、孫堅との戦いで、董卓は胡軫・呂布らを討伐軍に派遣した。 |
| 呂布は胡軫に反感を抱いており、胡軫の作戦を失敗させようとし、誤情報を流したので、胡軫の作戦は失敗し、董卓軍は都尉の華雄が討たれるなど、孫堅に大敗したという(陽人の戦い)。 |
| この戦い以降、董卓軍は形勢不利となり、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた(『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」、魏志「武帝紀」)。 |
董卓暗殺
| 200px|thumb|呂布(肖像)。 |
| 暴虐の限りを尽くす董卓の抹殺を目論む司徒の王允は董卓の信任を受けつつも密かに士孫瑞らと謀議をめぐらしていたが、一方で董卓の側近である呂布とも同郷であったため親しくしていた。 |
| あるとき、呂布が董卓に殺されかけた話董卓が一時の怒りから呂布に手戟(小さな剣)を投げつけたが、体術に優れていた呂布は見事にかわして事なきを得た。 |
| を王允にしたところ、王允は呂布に董卓暗殺を唆した呂布が董卓との親子の誓いがあることを気にすると、王允は姓が別であるから遠慮はいらない、と説得した。 |
| 初平3年(192年)4月『三国志』魏志「武帝紀」、ついに呂布は自ら刀をふるって董卓を殺害し、その恐怖政治を終わらせた。 |
| 自らを養子にまで迎えていた董卓の暗殺に加わった理由については諸説あり、董卓の侍女『三国志演義』の王允の養女貂蝉のモデル。 |
| と密通しており、それが露顕し処罰されることを恐れていたともされる。 |
| また、個人的な怨恨の他、并州出身者と涼州出身者間の派閥争いの結果とも言われているが、明確には判っておらず憶測の域を出ない。 |
| 董卓殺害後、王允は呂布を奮武将軍に任命し、節を与え、待遇を三公と同等にするなど重用し、爵位も温侯に昇進させた。 |
| 呂布は董卓の故郷である涼州出身者を恐れ憎んだので、呂布は涼州の人々に恨まれたという。 |
| それが原因の一つとなり、董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が首都長安を襲撃してくると、呂布は応戦したものの防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた『三国志』魏志「呂布伝」の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布は郭汜に一騎打ちを挑み、郭汜を負傷させたが、郭汜は味方に助けられた。 |
| 呂布は数百騎を率いて武関から逃亡した。 |
| 董卓の死から60日後のことであったという。 |
中原を彷徨う
| 呂布はまず袁術を頼ろうとした。 |
| かつて董卓は汝南袁氏の一門を皆殺しにしたことがあったため、呂布は袁術に歓迎されることを期待したが、袁術には受け入れを拒否されている。 |
| 次に北方に行き、袁紹を頼った。 |
| 袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。 |
| 張燕は一万の精鋭と数千の騎兵を有していたが、呂布は赤兎にまたがり、側近の魏越と成廉と共に突撃を繰り返して、精強を誇った黒山賊を撃破した『三国志』の注に引かれている『曹瞞伝』によると、愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。 |
| しかし、その後、呂布は袁紹に兵力の補充を要求し、その将兵も略奪などを行ったので、袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れようとした。 |
| 袁紹は呂布の逆襲を恐れ、呂布に刺客を送るが失敗、呂布は袁紹の元から逃走した呂布は袁紹の兵士の眼を欺くため、帳の中で音楽を演奏させ、袁紹の兵士が眠ったすきをついて脱出したという(『英雄記』)。 |
| 流浪の途中、呂布は陳留太守の張邈に厚くもてなされたが、袁紹はその事を大いに悔しがった。 |
| 結局、呂布は河内の張楊を頼った。 |
| 張楊は長安の李傕と郭汜が呂布の首に賞金をかけていることを知っていたため落ち着かなかったが、呂布がそれを察知し、張楊に堂々とした態度をとったところ、張楊は表向きは呂布を討つふりをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。 |
| そのことを知った長安では呂布の気持ちをなだめるため潁川太守に任命したという(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)。 |
| 張邈は曹操の親友であったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていることから、袁紹の命令で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという以前、袁紹は張邈と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたこともあったが、曹操は袁紹に「張邈は自分の親友であるので、許してやって欲しい。 |
| 今は仲間割れをする時ではない」と反論したので、張邈が曹操に恩義を感じたこともあったとされる。 |
| 194年、曹操が徐州の陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮は張邈を説得し、呂布を盟主として迎え入れて兗州の牧とし、曹操に反旗を翻した。 |
| 張邈に迎え入れられた呂布は、曹操の留守を守っていた東郡太守の夏侯惇の留守をついて濮陽を占拠した(一時は夏侯惇を捕虜にしたが、韓浩の働きで奪還された)。 |
| ほとんどの郡県が呂布と張邈に呼応した。 |
| 張邈に手紙をかかせて鄄城を守る荀彧を油断させようとしたが、荀彧には看破された。 |
| さらに陳宮に軍を率いさせて曹操に従う県を攻略させようとしたが、程昱により阻止された。 |
| 徐州より戻った曹操と呂布は濮陽陽で対峙したが100日以上経過しても決着はつかなかった。 |
| 両軍は蝗害に苦しみ兵糧が不足したので、呂布は山陽に駐屯した。 |
| 1年以上にわたって激しく戦い、呂布軍は一時は曹操に重傷を負わせたこともあったが、次第に曹操軍が優位を築き、钜野で曹操軍に敗れると、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と袁術に援軍を求めて寿春に向かった張邈と別れ、呂布と陳宮は徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。 |
| 張邈は道中で部下に殺害され、曹操は張超を雍丘で数ヶ月包囲し下し、張邈の三族を皆殺しとしている。 |
徐州を支配
| 呂布は劉備に対し、当初はうやうやしい態度で臨んだが、次第にごう慢となり、劉備を弟と呼び出す始末であったため、劉備から内心嫌われていた(『英雄記』)。 |
| まもなく徐州を巡って劉備が袁術と合戦を行うようになると、袁術は呂布に劉備の背後を衝くようにもちかけた。 |
| 呂布は劉備の本拠下邳を奪い取り劉備の部下の張飛と陶謙の旧将の下邳相の曹豹らが争う事件が起き、丹陽兵を預かる中郎将の丹陽の許耽が呂布に使者を送り介入を要請し、呂布を城内に迎え入れたという(『英雄記』)、徐州の刺史を自称した呂布は袁術に手紙を送り、袁術から兵糧を提供する約束をとりつけ、喜んだという(『英雄記』)。 |
| 行き場を無くした劉備は呂布を頼ってきたため、呂布は劉備を小沛に駐屯させた劉備の家族は呂布に捕虜となっていたという(『英雄記』)。 |
| この後、袁術は武将紀霊らに歩兵・騎兵あわせて三万を率いさせて再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。 |
| 呂布軍の諸将は「将軍はすでに劉備を殺そうとしていたのですから、袁術に手を貸すべきです」と救援に反対したが、呂布は「いや、もし袁術が劉備を撃破すれば、北の泰山の軍閥と連携することになり、わしは袁術らに包囲されてしまうことになる。 |
| 救援せざるをえない」と主張して、歩兵1000人と騎兵200人を率いて劉備の援軍にかけつけた。 |
| 紀霊たちは呂布が現れたと聞くや兵を纏めて攻撃を中止していたが、呂布は両陣営の将を安屯に集めさせて和解させようと図った。 |
| わしは合戦を好まず、和解を喜ぶ性格なのだ」と言い、軍候に命令して戟を陣営の門に植えた。 |
| 引かぬというのなら好きにやれ」と言って呂布が放った矢は戟の小支に見事に命中し、驚愕した諸将は皆、引き揚げていった。 |
| しかし、その後、呂布は劉備を攻め、小沛を陥落させた。 |
| 献帝が河東にいたとき、呂布に使者を送り迎えにこさせようとしたが、呂布の軍には蓄えが不足していたためこれに応じることができなかった。 |
| 呂布が返礼の使者を送ると、献帝は呂布を平東将軍・平陶侯に任命したが、使者は山陽で手紙を紛失してしまった(『英雄記』)。 |
最期
| その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけた。 |
| 呂布も当初は乗り気でこれを受けようとし、娘を韓胤に預けて出発させたが、沛国の相である陳珪はこの二人が連携することで騒乱がさらに深まることを恐れ、呂布を唆して縁談を破談させた。 |
| 陳珪は呂布と曹操を提携させようとし、子の陳登を曹操への使者に送らせようとした。 |
| 呂布は当初はそれには乗り気ではなかったが、ちょうど曹操が呂布に使者に送り、左将軍に任命したことを報告すると、呂布は喜び、陳登を使者として曹操に送ったこれ以前に、以前与えた平東将軍の官位を改めて与えた(『英雄記』)。 |
| 陳登はひそかに呂布を滅ぼすことを曹操と約束し、広陵太守に任命された。 |
| このとき、陳珪の所領も加増を受けたが、呂布が望んでいた正式な徐州牧への任命は果たせなかったため、呂布は陳登のことを疑ったが、陳登は弁舌を用いて呂布の気持ちをほぐれさせた。 |
| 怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に大軍を率いさせ、連携して呂布を攻撃した。 |
| 呂布はうろたえて陳珪を責めたが、結局は陳珪と陳登の離間の計を採用し、袁術軍を混乱させ、張勲を大敗させた。 |
| 逆に袁術の本拠の寿春まで進撃し、手紙で袁術を挑発し、悠々と引き上げたという(『英雄記』)。 |
| この間、琅邪相の東海の蕭建を降参させ、さらに独立勢力の臧覇を攻撃し、勝つことはできなかったものの同盟関係を結ぶことにはなった(『英雄記』)。 |
| 建安3年(198年)、呂布は再び袁術側につくと、部下の高順を派遣して小沛の劉備を攻撃した。 |
| 曹操はちょうど荊州方面で張繍の軍と対峙していたため、留守を守る夏侯惇を派遣して劉備を救援させたが、高順に敗退し、小沛は陥落し、劉備の妻子は再び捕虜となった。 |
| 呂布は優れた武勇を見せたものの、計略に疎く猜疑心が強いため部下の諸将を統御できず、連戦連敗となり下邳城に追い詰められた。 |
| 陳登は反乱を起こし曹操の先駆けを務めていたため、呂布は城中にいた陳登の弟を人質にとったが、陳登は屈服せず、結局部下の裏切りにより人質の身柄を奪われ失敗した。 |
| さらに呂布は袁術に援軍を求めたところ、袁術は以前の呂布の背信を持ち出し消極的であり、呂布は娘を背中におぶり馬で敵中突破して袁術に援軍を求めようとしたが失敗した。 |
| さらに留守を陳宮と高順に守らせてみずから出陣し曹操の兵糧を断とうしたが、これは妻の反対により断念した。 |
| 包囲3ヶ月、曹操の参謀荀攸と郭嘉は沂水と泗水の水をひき、呂布を下邳城ごと水攻めして消耗させる策略を考案した(『三国志』魏志「武帝紀」「荀攸伝」)。 |
| 冬季の水攻めに遭った呂布軍の士気は沮喪し、ついに将軍の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こし、参謀の陳宮を捕縛して曹操に差し出して降伏した。 |
| 呂布は曹操に「(曹操)殿が歩兵を率いて、私が騎兵を率いれば、天下の平定は簡単なことでしょう」と語ると、曹操は迷いを見せた。 |
| すると劉備は、呂布が丁原と董卓を裏切って殺したことをあげて、曹操を諌めると、曹操は頷いた。 |
| 呂布は「劉備こそ一番信用できない男である」と主張したが、呂布は縛り首に処され、重臣の陳宮・高順らは斬首された。 |
フィクション
| 中国では古くから雑劇、京劇や、『三国志平話』、『三国志演義』などで描写されてきた。 |
三国志演義
| 250px|thumb|三英戦呂布。 |
| 身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、きらびやかな鎧をまとうという、豪壮な武者である。 |
| また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑とした。 |
| 陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われた曹操は処刑を決意する。 |
| 陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されてきた張遼に「見苦しい」と罵られた。 |
その他
| 『三国志』の「夏侯惇伝」には、建安24年(219年)に曹操によって呂布軍が郟県の摩陂で撃破されたことが記述されている。 |
| これらの記述から、関羽配下には同姓同名の呂布が存在していたと見ることができるが、「夏侯惇伝」の記述が衍字であるとの説もあり、ちくま学芸文庫の正史『三国志』の日本語訳でも、その説に従ってこれを訳していない。 |
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