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呂雉
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180年
前漢
紀元前2世紀
恵帝
少帝恭
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つながりの強いひと
劉邦
引き継ぐ者
前漢の初代皇帝(在位:前202年2月28日-前195年6月1日)。沛県の亭長<REF>亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと</REF>であったが、反秦連合に参加...
恵帝
恵帝(けいてい)は西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。
韓信
中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。世界軍事史上の名将として...
中国三大悪女
<< 前の質問 | 次の質問 >> 中国三大悪女 中国三大悪女と言われている呂雉や則天武后や西太后に対して興味があり、この3人が描かれている本を読んでみたいと...
始皇帝
始皇帝(,シーフアンティ)または秦始皇(,チンシーフアン)と称される。元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上...
西太后
清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺...
則天武后
則天武后と玄宗皇帝 大唐帝国の「光と影」 PHP文庫 お38-4 岡本好古/著 出版社名 : PHP研究所 出版年月 : 2007年5月 ISBNコード : 978-4-...
武則天
唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた(在位:690年10月16日-705年2月22日)。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多...
呂公
秦代末期の人、生没年不詳。呂雉の実父。本名は諸説あるが、史記索隠に引く相經によれば呂文(字は叔平)だという。出身は魏とも汝南新蔡ともいう。単父では...
魯元公主
漢の高祖劉邦の長女。生母は呂雉。恵帝(劉盈)は同母弟にあたる。小説等では“魯元”を名前とされることが多いが、本来は、魯・元公主とされるのが正しく、「...
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陳平
中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危...
劉太公
前漢の高祖(劉邦)の父。高祖の即位後に太上皇とされた。姓は劉氏。名は、或いは執嘉と伝える書がある。
関中
中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地...
蕭何
秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦に天下を取らせた、漢の三傑の一人。
周勃
中国の秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。子は世子の周勝之、条侯・周亜夫、平曲侯・周堅らがいる。爵位は絳侯。諡号は武侯。
張良
秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる...
戚夫人
秦 末から 前漢 初期の人。高祖 劉邦 の 側室 で、 劉如意 の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打...
劉如意
前漢初期の諸侯王(代王、のち趙王)で、高祖・劉邦の庶子(第三子)。生母は戚夫人。隠王と諡された。生年に関しては、紀元前207年という説がある。
少帝恭
少帝恭(しょうていきょう)は前漢第3代皇帝(歴代皇帝に含まない場合もある)。一般に名は恭とされるが、『史記』『漢書』およびその注にその記録はなく、出...
呂産
前漢の人。劉邦の妻である呂后(呂雉)の一族で、呂氏が権力を握った時代に呂王、相国となった。
プロフィール
呂雉とは
皇后となるまで
呂太后の専横
死後
評価
脚注
呂雉(りょち、?-紀元前180年)は、漢の高祖
劉邦
の皇后。
恵帝
の母。字は娥姁(女偏+句)。謚は高后(高皇后)。夫・
劉邦
の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后とも呼ばれる。「
中国三大悪女
」として唐代の
武則天
(
則天武后
)、清代の
西太后
と共に名前が挙げられる。
皇后となるまで
単父(現山東省単県)の有力者・
呂公
(呂文叔平)の娘として生まれた。
当時沛県の亭長(宿場役人)だった
劉邦
が
呂公
の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた
蕭何
に「進物一万銭」とはったりを書いた
劉邦
に
呂公
が感心し、妻の反対を押し切って
劉邦
に嫁がせ、一男一女(
恵帝
・
魯元公主
)をもうけた。
この時は
劉太公
の農業を助け、懸命に子供たちを育てていた。
ちなみに妹の呂須は樊噲に嫁いだ。
この時、人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる
貴婦人
の相がある」と言われ、また秦の
始皇帝
が「東南のほうに天子の気がある」と言い、
始皇帝
が巡幸した際に身の危険を感じた
劉邦
が山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに探し当て
劉邦
が不思議がると呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。
これらが噂となり、
劉邦
に仕える者が多かったという。
秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県で舅の
劉太公
や子供達とともに夫の留守を守っていたようである。
しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで
劉邦
が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ人質になってしまう(
恵帝
と
魯元公主
は
劉邦
と合流、関中に逃れることに成功するが、その際に
劉邦
が子を捨てる騒動が起こっている)。
これ以降の楚漢戦争は、
劉邦
の配下である
韓信
らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、そして太公と呂雉の身柄の解放が焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。
しかし紀元前203年に入ると、
韓信
等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。
窮地に陥った項羽は
劉邦
と講和し、呂雉は太公と共に
劉邦
の元に帰ることを許された。
翌紀元前202年、
劉邦
は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。
しかし、まだ政情は
劉邦
が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では
劉邦
の後継者を巡り暗闘が始まっていた。
このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かり、
韓信
が反乱を企てたことを知り
蕭何
と計り処刑する一方、自分の実家の呂氏一族、及び張良らの重臣の助けを借りて、
皇太子
となった劉盈の地位の安定に力を尽くした。
呂太后の専横
劉邦
が没して劉盈(
恵帝
)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。
また、自らの地位をより強固なものにするため、
張耳
の息
子張
敖と
魯元公主
の娘(
恵帝
の姪に当たる)を
恵帝
の皇后(
張皇后
)に立てた。
だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、
恵帝
即位後間もなく呂后は、
恵帝
の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王
劉肥
、趙王
劉如意
の殺害を企て、斉王暗殺は
恵帝
によって失敗するが、趙王とその生母
戚夫人
を殺害した。
この時、呂后は
戚夫人
を奴隷とし、趙王如意殺害後には、
戚夫人
の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせた、と史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。
厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる。
これに強いショックを受けた
恵帝
が政務を放棄し、酒に溺れ間もなく死去する。
死去後の葬儀で激しく嘆くも涙が出ていないことを張良の息子
張辟彊
から聞きつけた
陳平
は、呂后に実家の呂氏一族を重役に立てることを進言、呂后はその遺児・
少帝恭
を
立て
、呂氏一族や
陳平
、
周勃
ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図る。
しかしこの頃から、各地に諸侯王として配された
劉邦
の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な
少帝恭
を殺害して
少帝弘
を立てる等の行動をとり、
劉邦
恩顧の元勲たちからの反発を買うようになる。
また、元勲たちも自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。
呂后自身このことには気が付いていたようで、日食が起きた時には周囲の者に「私のせいだ」と言っていたといい、死ぬ数ヶ月前には青い犬に脇の下を引っ張られる幻を見たため占い師に占わせ
少帝恭
の祟りだと告げられた。
更には脇の病気にかかり、甥の
呂産
らに元勲たちの動向に気をつけるようにさんざん言い聞かせ、更に呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去した。
死後
しかし間もなく、
陳平
や
周勃
らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした上で、
恵帝
の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。
これが
文帝
である。
文帝
擁立の前後には
少帝弘
も、
恵帝
の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、
恵帝
の子とされていた常山王劉朝(軹侯)、淮陽王
劉武
(壷関侯)らと共に暗殺された。
また、呂后の妹の呂須は鞭打ちの刑で殺害され、呂須の息子の樊伉も殺害された。
呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、
魯元公主
が生んだ張敖の子供である
張皇后
と張偃兄弟のみであった(公主は母の呂后に先だって死去)。
評価
呂后の時代は、皇族や元勲たちが殺害されるなど、宮廷では何かと血腥い事件の続いた時代であり、呂氏一族も呂后の死後誅殺されることになる。
ただし、宮中の生臭さとは裏腹に、呂后の治世に関しては「天下は安泰で、刑罰を用いる事は稀で罪人も少なく、民は農事に精励し、衣食は益々豊かになった」と
司馬遷
に絶賛されている。
また、
司馬遷
は史記において時の支配者として
始皇帝
・項羽・
劉邦
らと同じく呂太后本紀として立てられて、『漢書』でも同じく高后紀として本紀としている。
なお、新末後漢初の動乱の際、赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚したという『後漢書』
劉盆子
伝。
光武帝
は呂雉から皇后の地位と高皇后の諡号を剥奪し、
文帝
の生母である薄氏を
劉邦
の正妻として高皇后の諡号を贈った。
郭沫若
や佐竹靖彦など中国や日本の歴史家の見解によると、呂雉は秦で繁栄した
呂不韋
の一族である可能性があるという見解が一部であるが、史記や漢書には記述が無いため真相は不明。
脚注
zh-classical:漢高皇后。
呂雉 - Wikipedia
より要約
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