| その後、魯の元公の嘉に仕えてその将軍となる。 |
| 斉人を妻にしていたために将軍に任用する事を危ぶまれたが、先んじて妻を殺すことでそれを晴らした。 |
| しかし、それが結局人格に対する不信感を産み、魯の大夫達により「呉起は自分の妻を殺したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあって、彼は元公から懲戒免職されて失脚し、身の危険を感じて魏の文侯のもとに走る。 |
| 文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。 |
| 文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。 |
| 呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。 |
| ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。 |
| 将軍様がじきじきにあんな事をやって下されているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍様に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。 |
| あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。 |
| この逸話の示すように兵士達は呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。 |
| 呉起は軍を率い、秦を討ち、5つの城を奪った。 |
| この功績により西河の太守に任じられ、秦・韓を牽制した。 |
| 文侯が死に、子の武侯が即位すると田文孟嘗君とは同名異人。 |
| と宰相の座を争うが、これに敗れる。 |
| これを不服として、本人に抗議し、軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。 |
| すると、田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は幼くして民からの信望も薄い。 |
| このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。 |
| ここにおいて呉起は己が田文に及ばないことを認めた。 |
| 横山光輝の「史記」では「そうか、天に日は二つあってはならぬといっているのか……」という呉起のモノローグを補っている。 |
| その後田文が亡くなり、文侯の女婿でもある魏の公族の←これは確かでしょうか?ノートを御参照下さい。 |
| -->公叔某が後任の宰相となった。 |
| しかし公叔は呉起を嫌ったために、妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。 |
| そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くいかなくなった。 |
| さらに公叔は呉起を陥れる策略を画策し、呉起に反乱の罪を着せようとしたので呉起は楚に逃亡した。 |
| 楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。 |
| 元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。 |
| これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵・王権強化に成功した。 |
| この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的には古い)。 |
| しかしその裏では権限を削られた貴族達の強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。 |
| 呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であった。 |
| 紀元前381年、悼王が老齢で死去すると、反呉起派は呉起を殺すために宮中に踏み込んだ。 |
| 逃れられない事を悟ると呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。 |
| 政権空白期の事故である。 |
| だが父の跡を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、巧みに「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が王の死体に鞭打ったために、このような法律があった)を持ち出し、改革反対派である悼王の遺体を射抜いた者達を大逆の罪で一族全員処刑してしまった。 |
| 死の間際において呉起は、自分を殺した者達への復讐を目論み、かつ改革反対派の粛正を企てたのである。 |
| しかしこの機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わった。 |