| 彭式は人数を多数集め乱暴を働いたが、周魴は銭唐の相に任じられると瞬く間にこれを鎮圧した。 |
| この功績で丹陽西部都尉となった。 |
| 黄武年間、鄱陽の彭義という者が反乱を起こすと、周魴は鄱陽太守に任じられ、胡綜と協力しその討伐にあたった。 |
| 周魴は彭義の身柄を拘束し、武昌に送った。 |
| この功績で、昭義校尉を加官された。 |
| 魏の揚州牧曹休は、山越を扇動し呉への侵攻を図っていた。 |
| 孫権は曹休を油断させるための内通者を募ったが、周魴は自らその役を買って出た。 |
| 周魴は曹休に対して孫権への不満を綴った書状を7通も送り、内通することを曹休に約束した。 |
| 曹休は当初これを信じなかったが、周魴の元に中央から詰問の使者が送られてきたたことを知り、信じてしまった。 |
| 228年、周魴の謀略を信じ込んだ曹休は10万の軍を率いて呉領深く侵攻した。 |
| 皖城において待ち伏せていた陸遜の呉軍に遭遇した曹休は、計略にかかったことに始めて気づいたが、自らの率いる大軍にまかせてそのまま決戦に及んだ。 |
| 陸遜は曹休を左右から攻撃し破ったが、周魴も軍勢を率いて曹休の軍勢を分断し、勝利に貢献した。 |
| この功績により、孫権から裨将軍・関内侯の地位を与えられた(石亭の戦い)。 |
| その後も周魴は、唐咨と吾粲が3千の兵を率いても降せなかった董嗣を計略で殺害し、その弟を降伏させるなど、反乱討伐に功績を挙げた。 |
| 周魴は太守の地位にあること13年で死去した。 |
| 信賞必罰の方針を貫いて、郡に恩愛と威厳が行き渡っていたといわれる。 |
| 小説『三国志演義』では、周魴が剃髪して呉に攻め込んでくれるように嘆願してきたため、曹休もその偽の投降を信用したというような脚色がなされている。 |