| 長楽少府の桓郁に禁中での侍講が命じられた。 |
| 冬10月、侍中であった竇憲を車騎将軍に任命し、北匈奴を征伐させた。 |
| 安息国が使者を送ってきた。 |
| 永元元年(89年)夏6月、竇憲は度遼将軍の鄧鴻や南匈奴の単于と協力して北匈奴を稽落山において大いに破り、北匈奴の単于を降伏し人質を得た。 |
| 9月、竇憲は大将軍に任命され、中郎将の劉尚が後任の車騎将軍となった。 |
| 永元2年(90年)2月、西河と上郡の属国都尉の官が再び設置された。 |
| 夏5月、諸王の封地が変更となった。 |
| また、北匈奴に副校尉の閻磐が追討に赴いた。 |
| 月氏が西域長史の班超を攻撃したが、班超はこれを撃退した。 |
| 秋7月、竇憲は涼州に出兵した。 |
| 9月、北匈奴が使者を送ってきた。 |
| 冬10月、行中郎将の班固が南匈奴の単于に命令を報じ、河雲北において北匈奴が大いに破られた。 |
| 永元3年(91年)正月に和帝は元服した。 |
| 2月、竇憲は左校尉の耿夔を遣わし、金微山において北匈奴の単于を包囲し之を大いに破り、単于の母の閼氏を捕虜とした。 |
| 冬10月、和帝は長安に行幸した。 |
| 12月、西域都護、騎都尉、戊己校尉の官職を復活させた。 |
| 永元4年92年春正月、北匈奴において政変が起き、新たに立った単于が降伏を申し出てきた。 |
| 左校尉の耿夔が出向き璽綬を受け取った。 |
| 3月、司徒の袁安が死去し、太常の丁鴻が司徒となった。 |
| 夏4月、竇憲が京師に帰還した。 |
| 6月、日食と地震の災害が起きた。 |
| 竇憲は外戚であり、元々権勢家であった上、軍功を立てたことから増長するようになったいた。 |
| 和帝はこれを憎み、竇憲の一党を排除しようとし、宦官の鄭衆らと策をめぐらした。 |
| 和帝は詔勅を出して竇憲に謀反の罪があるとし、その与党である射聲校尉の郭璜とその子である侍中の郭舉、衛尉である鄧疊とその弟である步兵校尉の鄧磊を捕らえ、みな獄死させた。 |
| さらに謁者僕射を使者におくり大将軍の印綬を没収し、竇憲とその弟の竇篤、竇景を封国に赴かせ、そこで自殺させた。 |
| 秋7月、太尉の宋由が竇憲に与したとして自殺させられた。 |
| 8月、司空の任隗が死去し、大司農の尹睦が太尉・録尚書事となった。 |
| 冬10月には宗正の劉方が司空となった。 |
| 12月には武陵と零陵と澧中で蛮族が反乱を起こし、焼当羌が金城に侵攻した。 |
| 永元5年93年2月、太傅の鄧彪が死去した。 |
| 匈奴の単于が除鞬において叛きいたが、中郎将の任尚が派遣され之を討滅した。 |
| 冬10月、太尉の尹睦が死去した。 |
| 11月に、太僕の張酺が太尉となった。 |
| この年には武陵郡の蛮族の反乱は郡により鎮圧された。 |
| また、護羌校尉の貫友が焼当羌を討ち追い払った。 |
| また、南匈奴の単于が反乱を起こした破れて斬られた。 |
| 永元6年(94年)春正月、永昌徼外の夷が使者を送り犀牛、大象を献上してきた。 |
| 司徒の丁鴻が死去した。 |
| 2月、三河、兗、冀、青州貧民に食糧が貸し与えられた。 |
| 許陽侯の馬光が自殺した。 |
| 司空の劉方が司徒に、太常の張奮が司空となった。 |
| 夏4月、蜀郡徼外の羌が使者を送ってきた。 |
| 秋7月、西域都護の班超は焉耆、尉犁を大いに破り、その王を斬り、西域の多くの国を降伏させた。 |
| 南匈奴の単于が叛いて胡亡出塞。 |
| 9月、光禄勳の鄧鴻が車騎将軍の代行に任命され、越騎校尉の馮柱、度遼将軍代行の朱徽、使匈奴中郎将の杜崇を送り南匈奴を討たせた。 |
| 冬11月、護烏桓校尉の任尚が烏桓と鮮卑を率いて逢侯を大いに破り、馮柱は追擊を加えて再びこれを破った。 |
| 武陵の漊中蛮が反乱を起こし郡により平定された。 |
| 永元7年95年春正月、鄧鴻、朱徽、杜崇らは皆獄に下され死去した。 |
| 夏4月、日食がおきた。 |
| 和帝は天災が続くことを憂えて公卿を引見して意見を募った。 |
| 秋7月には易陽で地裂がおきた。 |
| 9月、京師で地震があった。 |
| 永元8年(96年)春2月己、貴人の陰氏を皇后に立てた。 |
| 国内の災害はやまず、対策に追われた。 |
| 南匈奴が反逆した。 |
| 秋7月、度遼将軍代行の龐と、越騎校尉の馮柱が軍を引き手南匈奴の反乱を鎮めた。 |
| 車師後王が叛き、車師前王を攻撃した。 |
| 冬10月、北海王の劉威が罪を得て自殺した。 |
| 永元9年97年春正月、永昌徼外の蛮夷と撣國が奉貢してきた。 |
| 西域長史の王林が車師後王を撃ち、之を斬った。 |
| 6月、蝗と旱があったため、和帝は詔勅を出して被害の救済を行った。 |
| 8月、鮮卑が肥如に侵攻し、遼東太守の祭參が獄に下され死去した。 |
| 焼当羌が隴西に侵略し、長吏を殺害したため、征西将軍代行の劉尚と越騎校尉の趙世らがこれを討ち破った。 |
| 9月、司徒の劉方が免職となり、自殺した。 |
| 12月、司空の張奮が罷免となり、太僕の韓稜が司空となった。 |
| 永元10年(98年)春3月、和帝は政治についての詔勅を出した。 |
| 8月、太常の泰山の巢堪が司空となった。 |
| 永元11年(99年)春2月、各地の災害対策として各地の郡国に使者を送り、刑罰を緩め、税を免じた。 |
| 永元12年(100年)春2月、旄牛徼外の白狼、貗薄夷が內屬した。 |
| 9月、太尉の張酺が免職となり、大司農の張禹が太尉となった。 |
| 冬11月、西域の蒙奇、兜勒の二国が使いを送ってきたため、その王に金印紫綬を与えた。 |
| 2月、詔を出し、潁川、汝南、陳留、江夏、梁国、敦煌の貧民に稟を貸すことにした。 |
| 9月、南に巡狩をし、清河王の劉慶、済北王の劉壽、河間王の劉開を並べて従わせ、官吏にも財貨を振舞った。 |
| 永元16年(104年)春正月、詔を出し、貧民に田と種を貸し与えるよう命令を出した。 |
| 秋9月、遼東太守の耿夔は貊人を撃ち、之を破った。 |
| 皇子の劉隆を皇太子として即位させ(殤帝)、鄧氏が皇太后として臨朝した。 |