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唐咨
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クイズ三國志 知略の覇者
226年
三公
劉シン
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プロフィール
唐咨とは
生涯
三国志演義
唐咨(とうし、生没年不詳)は、中国、三国時代の武将。利城の人。『三国志』魏志「
諸葛誕
伝」に附伝されている。その他、魏志、呉志の各所に名が見える。魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。
諸葛誕
の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。
生涯
魏の曹丕(
文帝
)の時代である黄初年間、利城郡において反乱が起き、太守が殺害された後に唐咨が反乱の指導者として祭り上げられた『三国志』魏志「
文帝
紀」によると黄初6年(225年)6月。
兵士蔡方らが郡をあげて反乱を起こし、太守の
徐質
を殺害したという。
しかし、
文帝
が派遣した追討軍『三国志』魏志「
文帝
紀」によると、屯騎校尉の任福・歩兵校尉の段昭が中央より派遣され、青州刺史の王淩らが協力したという。
『三国志』魏志「
呂虔
伝」によると、徐州刺史の
呂虔
が従軍。
により反乱は鎮圧され、唐咨は船で海中に逃走した。
唐咨は後に呉の
孫権
を頼って落ち延びた。
嘉禾3年(234年)、廬陵郡・会稽郡・南海郡で賊が蜂起した『三国志』呉志「
呂岱
伝」。
嘉禾4年(235年)『三国志』呉志「呉主伝」、唐咨は
孫権
の命令で劉纂と共に鎮南将軍の
呂岱
の指揮下につけられ、反乱の鎮圧にあたった。
嘉禾5年(236年)、唐咨は廬陵の賊である羅厲を捕虜とした『三国志』呉志「呉主伝」。
豫章・臨川の賊の董嗣の略奪を阻止するため、
吾粲
と共に兵士3000人を率いて防戦したが、数ヶ月たってもこれを退けることはできなかった『三国志』呉志「
周魴
伝」。
赤烏2年(239年)冬10月、都督の廖式が臨賀太守の
厳綱
を殺害し平南将軍を自称して反乱を起こした。
反乱の影響は零領郡・桂陽郡や交州・蒼吾郡・鬱林郡にまで及び数万人の規模にあたった。
唐咨は
孫権
の命令で
呂岱
と共にその討伐にあたり、1年ほどでこれを鎮圧した『三国志』呉志「呉主伝」。
孫権
の死後、皇帝孫亮の下で
孫峻
が実権を握った時代の五鳳3年(256年)、同じ魏からの降将である征北大将軍
文欽
の進言で
孫峻
は
北伐
を実施し、同年8月に派遣された驃騎将軍
呂拠
率いる先発隊に前将軍の唐咨もこれに従軍した。
途中で
孫峻
が急死して孫綝が継ぐと、
呂拠
はこれに不満を持ち反乱を起こそうとするが、唐咨は孫綝の命令を受けて
文欽
と共に
呂拠
を攻撃し、これを滅ぼした『三国志』呉志「三嗣主伝」。
呉において唐咨は出世して左将軍までになり、列侯され持節も与えられたという。
甘露2年(258年)5月、揚州において魏に対して反乱を起こした
諸葛誕
への援軍の将の1人として、
文欽
らと共に寿春に
籠城
して魏軍と戦ったが、魏の包囲陣の前に呉の後続の援軍が断たれたため城中に孤立した。
甘露3年(259年)3月、寿春は落城し、
諸葛誕
・
文欽
が死に唐咨は捕虜となった。
魏の大将軍
司馬昭
は
諸葛誕
・
文欽
・唐咨を三人の謀反人と呼び、魏の人達も唐咨が捕虜になったことを喜んだ。
しかし、
司馬昭
は唐咨を赦免し安遠将軍に任じるなど、厚遇を与えたため、人々は
司馬昭
の徳を賞賛したという。
なお、他の呉からの降伏者も同様に厚遇を受けたため、呉の側も彼等の家族を処刑するようなことはしなかったという。
景元3年(262年)冬、
司馬昭
は腹心の鍾会を鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命し、蜀の攻撃の準備をすすめる一方で、東方の州に船の建造を命じ、さらに唐咨に命じて大型の海上船を建造させ、表向きは呉への攻撃の準備とみせかけようとした『三国志』魏志「鍾会伝」。
三国志演義
小説『三国志演義』では、
諸葛誕
の反乱における援軍の将として登場し、魏軍に敗れて呉に戻ろうとしたが、孫綝に処刑されることを恐れて
司馬昭
に投降したとされている。
なお、呉に残していた家族は孫綝によって処刑されている。
後の蜀討伐にも参加している。
唐咨 - Wikipedia
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