| 紀元前359年、孝公は公孫鞅を左庶長秦二十等爵制中の第十二位、なお「商君列伝」ではこの時点で左庶長になっているが、「秦本紀」では変法実行後3年してからになっている。 |
| に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。 |
| これは第一次変法と呼ばれる。 |
| 主な内容は以下の通り。 |
| 戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分けるこれを「什伍」と呼ぶ。 |
| 逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。 |
| 一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。 |
| 戦争での功績には爵位を以て報いる。 |
| 私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。 |
| 男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。 |
| 商業をしたり怠けたりして貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。 |
| 特権階級といえども、戦功のない者はその身分を剥奪する。 |
| 法令を社会規範の要点とする。 |
| まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈一丈は十尺(秦代の度量衡では一尺は約27.6㎝)。 |
| 約8.3m。 |
| もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。 |
| しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。 |
| そこで、賞金を五十金にした。 |
| すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。 |
| こういったことで、まずは変法への信頼をえることができた。 |
| しかし、最初は新法も上手くいかず、民衆からも不満の声が上がったが公孫鞅は意に介さなかった。 |
| 公孫鞅は法が上手くいかないのはきちんと守られてないせいであると考えた。 |
| その時、孝公の太子の嬴駟(えいし)(後の恵文王)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。 |
| さすがに孝公は自分の嗣子である太子駟を直接罰する事は出来ないので、太子の傅(後見役)の公子虔を鼻削ぎの刑にし、また教育係の公孫賈を額に入墨に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝懽を処刑した。 |
| このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅に対して憎悪したという。 |
| この後は全ての人が法を守った。 |
| そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。 |
| はじめ不満を漏らしていた民衆たちも手のひらを返したように賞賛の声を上げたが、公孫鞅は「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。 |
| これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。 |