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プロフィール
- 坂口安吾とは
- 生い立ち
- 新進作家へ
- 時代の寵児
- 末年
- 年譜
- 主な作品
- 文庫作品集
- 関連サイト
坂口安吾(さかぐちあんご、1906年(明治39年)10月20日-1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(へいご)。新潟県出身、東洋大学文学部印度哲学倫理科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸から時代風俗まで広範に材を採るエッセイまで、多彩な領域にわたって活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、 無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。晩年に生まれた一人息子の 坂口綱男は写真家。
生い立ち
| 新潟県新潟市西大畑町(現・中央区西大畑町)に、憲政本党所属の衆議院議員の父坂口仁一郎、母アサの五男、13人兄弟の12番目として生まれる。 |
| 名前(炳五)の由来は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。 |
| 坂口家は代々の旧家、大地主であり、「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われるほどの富豪だった。 |
| また仁一郎は、「阪口五峰」の号をもつ漢詩人でもあり、新潟新聞(現・新潟日報)の社長なども務めた。 |
| 政治家としては、若槻禮次郎、加藤高明らと、文学者としては会津八一と親交があった。 |
| 仁一郎は政治活動に金銭を注ぎ、安吾の生まれた頃は家は傾きかけていた。 |
| アサは仁一郎の後妻で、安吾はこの傾いた家計を支えるのに苦労していた母親から愛されなかったという思いを抱いて成長する。 |
| また兄の献吉は、後に新潟日報社やラジオ新潟(現:新潟放送)の社長などを務めた。 |
| 幼少時は破天荒な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘で遊び回る。 |
| 立川文庫の『猿飛佐助』を愛読し、忍術ごっこに興じる。 |
| 小学校での成績はよかったが、中学に入って近眼で黒板の字が読めなくなり、また横暴な上級生への反抗の気持ちが強くなってほとんど授業に出なくなり、海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過ごす。 |
| 2年の時には4科目で不合格となり留年。 |
| 家庭教師をつけられたりしたが逃げ回っていた。 |
| 再び落第の恐れがあり、東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)3年に編入、父や兄献吉らと東京府豊多摩郡戸塚町諏訪に住む。 |
| この時、「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろうと、キザなことを彫ってきた」と『いづこへ』に記している。 |
| 小説類は、早くから読んでおり、芥川龍之介、谷崎潤一郎などを愛読、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、他にエドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アントン・チェーホフなどにも影響を受けた。 |
| 詩歌では石川啄木、北原白秋などを愛読、短歌を作り、仏教にも関心を寄せた。 |
| また日本史に興味を持ち『講談雑誌』を愛読。 |
| 自伝小説『風と光と二十の私と』には、ボクシング小説「人心収攬術」の翻訳を、友人Sの名前で『新青年』に掲載したとあるが、今日当の記事は(結局掲載されなかったのか)見当たらない。 |
| 18歳前後は、野球や陸上競技に熱中、5年次の1924年(大正13年)にインターミドル(全国中等学校陸上競技会、インターハイの前身)のハイジャンプで1m57cmの記録で優勝した。 |
| 1923年(大正12年)に父・仁一郎が死去し、1925年(大正14年)から兄と荏原郡大井町に転居。 |
| 豊山中学校を卒業し、世田ヶ谷町の荏原尋常小学校(現・若林小学校)の代用教員に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となる。 |
| 1926年(大正15年)に仏教の研究を決意し、代用教員を辞めて東洋大学印度哲学倫理学科(現・インド哲学科)に入学。 |
| 睡眠時間を4時間にして仏教書、哲学書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けて、遂に神経衰弱に陥るが、サンスクリット語、パーリ語、チベット語など語学学習に熱中することで克服した。 |
| 次いでラテン語、フランス語を学び、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェなどに触れて、アテネ・フランセに通い始める。 |
| ここでは賞をもらうほど成績優秀であり、また級友と読書会を行ったりした。 |
| この頃『改造』誌の懸賞小説に応募して落選する。 |
新進作家へ
| 1930年(昭和5年)東洋大学を卒業。 |
| 本格的に20世紀フランス文学を学び始め、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、江口清らと同人誌『言葉』を創刊。 |
| 創刊号にマリイ・シェイケビッチ「プルウストに就てのクロッキ」の翻訳を掲載。 |
| 翌年第2号に処女小説「木枯の酒倉から」を書き、小説家としての資質に自信を持つようになる。 |
| 『言葉』は2号まで刊行後、5月に『青い馬』と改題して岩波書店から新創刊、創刊号に小説「ふるさとに寄する讃歌」、評論「ピエロ伝道者」、翻訳「ステファヌ・マラルメ」(ヴァレリー)、「エリック・サティ」(コクトー)を発表。 |
| 続いて2号に散文ファルスとも言うべき「風博士」、3号に「黒谷村」を発表する。 |
| この「風博士」と「黒谷村」を牧野信一が激賞、島崎藤村と宇野浩二にも認められ、一躍新進作家として注目され、次いで「海の霧」「霓博士の頽廃」を発表。 |
| 牧野信一主宰の春陽堂の『文科』に「竹薮の家」を連載。 |
| 1932年3月、『青い馬』は5号で廃刊、この最終号には「FARCEに就いて」を掲載。 |
| 牧野の発刊した季刊誌『分科』に、長編「竹薮の家」を連載、この同人の小林秀雄らと知り合う。 |
| また3月から京都に1か月ほど滞在し、大岡昇平を通じて加藤英倫、安原喜弘らと交遊して帰京。 |
| 年末から翌年正月にかけて、青山二郎行きつけの酒場ウヰンザアで、加藤の紹介で矢田津世子と知り合い交際が始まる。 |
| 1933年に田村泰次郎、井上友一郎、矢田らと同人誌『桜』に参加。 |
| 5、7月に「麓」を連載するが、『桜』は第3号以降の刊行が難しくなり、10月に矢田とともに脱退。 |
| 1936年に矢田と絶交し、長篇「吹雪物語」の執筆を始める。 |
| 翌年京都に下宿し、「吹雪物語」に専念しながら、碁会所を開くなど囲碁三昧の生活を送る。 |
| 1938年に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作「吹雪物語」を脱稿して上京するが、失敗作と評され失意に陥る。 |
| 同年『文体』12月号に「閑山」、翌年2月に「紫大納言」を発表し、ファルスの文学で復活。 |
| 私生活では取手の取手病院の離れに住み込み、1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、三好達治の誘いで小田原に転居。 |
| 1941年から蒲田で母と住むようになるが、翌42年に母は息を引き取る。 |
| 1944年に徴兵逃れのために日本映画社の嘱託となり、空襲で焼けた大井広介の家の防空壕に一人住み続けた。 |
| 戦時中は作品発表の場が大幅に減り、歴史書を読み漁り、「黒田如水」「二流の人」などを執筆した他、エッセイ「日本文化私観」「文学のふるさと」「青春論」、自伝小説「二十一」などを執筆、創作集「真珠」は反戦厭戦的な非国民小説として発行を禁止された。 |
時代の寵児
| 1946年(昭和21年)4月に「堕落論」、6月に「白痴」を発表、敗戦に打ちのめされていた日本人に衝撃を与える。 |
| 続いて「デカダンス文学論」「外套と青空」「女体」「恋をしにいく」「桜の森の満開の下」などを立て続けに発表。 |
| 織田作之助、石川淳、太宰治らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれて時代の寵児となる。 |
| アドルム、ヒロポンを服用しながら次々と作品を発表し、1947年に「道鏡」、1948年に「二流の人」と、独特の歴史観による作品を発表。 |
| また自伝的作品「石の思い」「いずこへ」「風と光と二十の私と」「暗い青春」などをこれらと並行して発表。 |
| 1947年2月からは初の新聞連載小説「花妖」を、岡本太郎の挿絵で連載を開始するが、新聞小説としては型破りであったために読者の評判は悪く連載中断となってしまい未完となる。 |
| この後は連作長編「金銭無情」などファルス的な作品が多くなり、8月に『日本小説』に推理小説「不連続殺人事件」の連載を始める。 |
| 1947年10月に「青鬼の褌を洗う女」発表。 |
| また新宿の酒場「チトセ」で梶三千代を紹介され、秘書として手伝いをしてもらうようになり、結婚する。 |
| ちょうど太宰の自殺した1948年6月頃から、鬱病的精神状態に陥る。 |
| これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、長編『火』の執筆に没頭する。 |
| しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、ゼドリンを大量に服用したため、病状は更に悪化し、幻聴、幻視も生じるようになり、1949年1月に取材のために京都へ行った後には狂乱状態となり、夫人や友人達の手により2月に睡眠薬中毒と神経衰弱で東京大学医学部附属病院に入院。 |
| 生活のために執筆を再開するが、軽く使用した薬物のために7月に病気再発、伊東に転地療養して健康を取り戻し、1949年4月読売新聞に「精神病覚え書」「僕はもう治っている」を掲載。 |
| この夏から夫人とともに伊東に移り、1950年1月には「肝臓先生」発表。 |
| 続いて「安吾捕物帖」「安吾巷談」「安吾新日本地理」「安吾史譚」などを連載し評論家として活躍、巷談師を自称する。 |
末年
| 流行作家としての収入があっても使い切ってしまう安吾に税金を払わせようとする国税庁に腹を立て、1951年には税金不払い闘争を行い、差し押さえを受け、「負ケラレマセン勝ツマデハ」を書く。 |
| 続いて伊東競輪のあるレースの着順に不正があったのではないかと調査し、当時の運営団体である静岡県自転車振興会を検察庁に告訴するという伊東競輪不正告訴事件を起こす。 |
| 11月にはこれについて書いた「光を覆うものなし」発表し、その中で坂口は判定写真のすり替えによる不正を主張していたが、12月に嫌疑不十分で不起訴となった。 |
| この競輪告訴事件の泥沼化により伊東から離れて転々と居場所を変えることになり、石神井の檀一雄宅を経て、1952年2月に『現代文学』同人だった南川潤の紹介で桐生の書上家の離れに身を隠す。 |
| これらの間小説の執筆は激減するが、6月には「夜長姫と耳男」発表、10月から翌年3月まで新聞連載小説「信長」執筆。 |
| 1953年4月、アドルムの大量服用で錯乱状態となったことで、南川とも絶縁。 |
| 1953年8月に檀一雄と信州に旅行し、ここで暴れて留置場に入れられ、釈放された朝、長男(綱男)の誕生を知る。 |
| 子供が出来たために、財産が無いことを案じ(「人の子の親となりて」)、貯金をしようかという気になり始め(「近況報告」)、また子にはパパ、ママと呼ばせる(「砂をかむ」)。 |
| 1955年、『中央公論』での連載「安吾新日本地理」連載のために高知へ取材、2月15日夜に桐生の自宅へ戻り、17日朝に倒れ、脳出血により死去。 |
| 葬儀は青山斎場で行われ、新津市大安寺(現・新潟市秋葉区)の坂口家墓所に葬られた。 |
| 小説としての絶筆は『中央公論』1月号の「狂人遺書」、没後にエッセイとして3月に「諦めている子供たち」「砂をかむ」、4月に「育児」「青い絨毯」「世に出るまで」が発表される。 |
| 1949年から54年まで芥川賞選考委員を勤め、五味康祐「喪神」、松本清張「或る「小倉日記」伝」を強く推すなど新風を吹き込んだ。 |
| 1957年、新潟市寄居浜の護国神社境内に「ふるさとは語ることなし」の詩碑が建立された。 |
年譜
| 1906年(明治39年)-新潟県新潟市西大畑町で誕生。 |
| 1913年(大正2年)-新潟尋常高等小学校に入学。 |
| 1919年(大正8年)-県立新潟中学校(現・県立新潟高校)に入学。 |
| 1928年(昭和3年)-アテネフランセ入学、ボーマルシェなどのファルスを愛読した。 |
| 1934年(昭和9年)-酒場ボヘミアンのマダムと同棲し、大森のアパートに移る。 |
| 1936年(昭和11年)-1月から「狼園」を『文學界』に連載するが、3月に牧野信一の自殺に衝撃を受けて連載を中絶。 |
| 1938年(昭和13年)-帰京して本郷の菊富士ホテルに滞在、その後取手に移る。 |
| 1944年(昭和19年)-1月に「黒田如水」を『現代文学』に、2月に「鉄砲」を『文藝』に発表。 |
| 1946年(昭和21年)-「堕落論」「白痴」を『新潮』に発表。 |
| 「風と光と二十の私と」を『文芸』に、「戯作者文学論」を『近代文学』に、「桜の森の満開の下」を『肉体』に発表。 |
主な作品
| 歴史小説としては、三好達治の影響で切支丹に興味を持った1940年に『イノチガケ』を発表、続いて『島原の乱雑記』『鉄砲』を書く。 |
| 『道鏡』は、戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられ、内容はむしろ女帝としての孝謙天皇を描いたものだったが、天皇家の権威を否定する史観も含んでいた。 |
| 1951年から日本各地を取材してその歴史考察を記した「安吾の新日本地理」を『文藝春秋』に連載、古代王朝に関する大胆な仮説も提唱した。 |
| 少年時代から推理小説の熱烈な読者であった安吾は、第2回探偵作家クラブ賞を受賞した『不連続殺人事件』の他、長編『復員殺人事件』、短編「能面の秘密」など、時代ものとして『明治開化安吾捕物帖』を書いた。 |
| 将棋や囲碁も好んでおり、特に囲碁は強く、京都滞在時には碁会所席主として生活していたほどで、後に塩入逸造三段に五子で勝っている(「私の碁」1948年)。 |
| 将棋の木村義雄、升田幸三、塚田正夫らの名人戦の観戦記なども多数執筆して評価が高く、木村義雄が千日手を回避して敗北したときに木村を厳しく批判した『散る日本』は名作として名高い。 |
文庫作品集
| 角川文庫『白痴・二流の人』(1970)『道鏡・狂人遺書』『堕落論』『暗い青春・魔の退屈』『ふるさとに寄する讃歌』『外套と青空』『ジロリの女』『夜長姫と耳男』『散る日本』『安吾巷談』『安吾史譚』『安吾新日本地理』『不連続殺人事件』『明治開化安吾捕物帳』『能面の秘密』『復員殺人事件』『私の探偵小説』 。 |
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1933年
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田村泰次郎、井上友一郎、矢田らと同人誌『桜... |
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1936年
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矢田と絶交し、長篇「吹雪物語」の執筆を始める |
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