| ビートルズや吉田拓郎、ザ・フォーク・クルセダーズ等をルーツとする。 |
| しかしながら、国内外でコピーしたアーティストは数多く、多方面から影響を受けている。 |
| 中学1年生の時に、ヤマハのFG110を購入する。 |
| アコースティック・ギターを購入したのは、家が下町の酒屋であるという体裁からであり、その当時本人は、ザ・ベンチャーズの影響か、エレキギターが欲しかったようである。 |
| 「エレキを持つと不良になる」という、当時の一般社会の考えからそうなったとも考えられている。 |
| 中学高校時には、毎日学校にギターを持って行き、休み時間になるとギターを弾いていた。 |
| 進学校である都立墨田川高校では、ギターを学校へ持って行っても文句を言われないようにフォークソング同好会を設立し、初代会長となる(同好会はその後程なくして部に昇格し、後輩にあたる部員は後に「終わりなきメッセージ」等のコーラスとして、THE ALFEEのレコーディングにも参加している)。 |
| 高校3年の4月に、フォークコンテストに1人で参加。 |
| そこで、後にメンバーとなる明治学院高等学校の3人グループ「コンフィデンス」と出会う。 |
| そのグループには桜井賢が所属しており、後にTHE ALFEEの母体となったグループである。 |
| 坂崎は、その時に知り合った2人と一緒に「へそ下3寸」というグループを結成したが、その年の夏に「へそ下3寸」を脱退してコンフィデンスに飛び入り参加し、そのまま一員となる。 |
| コンフィデンスとしてはシングルとLPを一枚ずつ出している(その後、坂崎の抜けた「へそ下3寸」はテレビ神奈川の「ヤングインパルス」に出演した)。 |
| 「桜井たちが進学する」という理由で明治学院大学を志願するも試験日を1日遅く間違えてしまって一部の試験は受けられず、仕方なく二部の試験を受けて入学した。 |
| そこでは高見沢俊彦に出会い、フォーク嫌いだった彼をコンフィデンスに引き込む。 |
| フォーク好きの坂崎とハードロック好きの高見沢がなぜ友人になり得たかというと、ビートルズやウッドストック・フェスティバルでのCSN&Yのギターやコーラスに、2人が共感していたからだという。 |
| 高見沢が加入して4人になったコンフィデンスは、デビューにあたってアルフィー(ALFIE)と改名し、1974年8月25日に、シングルデビューする。 |
| デビューから再デビュー後の1980年代前半まで、一部の曲目は坂崎が作詞・作曲を行っていた。 |
| 1979年頃~1980年代前半、まだ無名だったアルフィーの知名度を上げるために、林家三平(初代)に師事し話術を磨き(このため、現在でも海老名家と交友が深い)、積極的にラジオ番組に出演した。 |
| 1982年以降に、アルフィーがいわゆるロックバンド系編成に変化するにあたっても、アコースティックギターを離すことはなく、バンドの独自のサウンドを作るうえで重要な要素をつくりあげた。 |
| しかし、ライブでは高見沢がアンプを何台も積み上げて爆音で演奏し、「坂崎さんはハードロックの曲のときは何をしているんですか」と言われたこともあったようだ。 |
| しかし、その爆音の中でもアコースティックギターのサウンドに凝っていた。 |
| 爆音でもギターの板が共鳴しないように、ヤマハの技術者と工夫を重ねている。 |
| このときの技術者が、後に自身のブランドである"Terry'sTerry"を興して独立し、坂崎のメインギターを作ったテリー中本である。 |
| その一方で、ギターを担当せず自身がリードヴォーカルを取るハードなナンバー等もあり、いつもと違った一面を見せることもある。 |
| 特にハードな曲では、ハンドマイクでステージ上をアクティブに動き回る姿を見ることが出来る。 |
| また「GATEOFHEAVEN」(1984年)以降、シンセドラム(ローランド製VDrums)をも担当することが多く「シンデレラは眠れない」(1985年)では、ギターを持たずにシンセドラムのみでテレビ出演、ステージでも多くの曲でシンセドラムのみ、あるいはギターとドラムの組み合わせといった、器用ぶりを発揮しており、マルチプレーヤーである。 |
| 「ジェネレーション・ダイナマイト」のPVや「ROCKDOM-風に吹かれて-」での「ザ・ベストテン」出演時に通常のドラムセットでプレイしている姿が見られるが、こちらはライブではほとんど見られない。 |
| 元々ベースは、桜井が坂崎に教わったものである。 |
| また、ロックの奏法しか出来なかった高見沢にはフォークに欠かせないスリーフィンガー・ピッキングを教えたという。 |
| アルフィーが売れない頃から、所ジョージと親交が厚く、所のアルバムでのアレンジ・ギター演奏の他、映画『下落合焼とりムービー』での共演等もした。 |
| 同じアパートで寝食を共にしていた時期もある。 |
| 1970年代後半、『所ジョージのオールナイトニッポン』に2時半の男として登場。 |
| 当時は「坂崎こうのとり」と呼ばれていた。 |
| 番組当日、所と家で曲作りをして一緒にニッポン放送へ向かい、出来た曲を番組内で披露するということをしていた。 |
| 所の初期の未発表曲で、本人が忘れている曲でも坂崎だけが憶えている曲があるという。 |
| 後に、番組パーソナリティの座を譲られている。 |
| ラジオ専門誌のDJ人気投票では、何度も1位に輝き、「KINGOFDJ」を経て現在では「GODOFDJ」と称されている。 |
| 現在も、ラジオのFM放送で自分の番組を持っており、NACK5の『K'sTRANSMISSION』とJFN系列の『坂崎さんの番組という番組』の2番組でアルフィーの情報や自身のライブ、自らのリスペクトするアーティストの特集など自身の関心にそった特徴ある番組づくりをしている。 |
| K'sTRANSMISSIONで放送されたイムジン河の特集をきっかけに、映画監督の井筒和幸がこの番組を取材し、『パッチギ!』の原案に重要な影響を与えている。 |
| 作品に出てくる「坂崎」は、坂崎本人と坂崎兄をモデルとした役柄になっている。 |
| また、この特集がきっかけでフォークルのイムジン河の1967年に果たせなかった発売が実現することとなり、そのことが加藤和彦と坂崎を結びつけることとなる。 |
| 2002年、ザ・フォーク・クルセダーズの期間限定新結成のメンバーに抜擢され、はしだのりひこに代わるセンターとして参加している。 |
| 2004年に開通した、九州新幹線のイメージソングを即興で作曲したりもした。 |
| 2004年、徳島県の吉野川遊園地に「坂崎さんのおさかなランド」がオープン、館長を務めているので、開館以来徳島を訪れることが増えている。 |
| 2007年、K'sTRANSMISSIONの番組上で、加藤和彦との新ユニット和幸(かずこう)の結成を発表。 |
| 1960~70年代の音楽を、彼らの視点で再提示したアルバム『和幸:ゴールデン・ヒッツ』をリリースした。 |
| 2009年5月2日、同日コンサート中に父・幸太郎を亡くす不幸に見舞われる。 |
| 奇しくも尊敬する大先輩でもあった忌野清志郎もこの世を去っており、「自分にとってとても大切な人を2人同時に亡くしてしまった」と激しく落胆、大きなショックを受ける。 |
| さらに10月17日には加藤和彦までもがこの世を去ってしまい、坂崎にとっては悲しい1年となってしまった。 |