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プロフィール
- 城英一郎とは
- 人物
- 特殊航空隊編成の意見書
- 年譜
- 参考文書
城英一郎(じょうえいいちろう、1899年(明治32年)4月1日-1944年(昭和19年)10月25日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。
人物
| 県立熊本中学校から海軍兵学校(47期)に進んだ。 |
| 城は山本親雄と同時期に海軍航空部門を歩んだ人物である。 |
| 兵学校卒業後に参加した遠洋航海で、指導官附であったのが山本で、その後も度々同所で勤務した。 |
| 霞ヶ浦海軍航空隊では副長の山本五十六に操縦を教授し、また山本が太平洋戦争開戦前に最後に昭和天皇に拝謁した際は、侍従武官として介添えした。 |
| 侍従武官としての城は、昭和天皇の評価が高かったといわれる。 |
| 1932年(昭和7年)、海軍大学校甲種学生卒業に際し、山本と海軍航空の将来像を話し合い、「最後の手は、肉弾体当たり」と結論している『山本五十六再考』pp236-237。 |
| 城はのちに下記のようなに航空機による体当たり攻撃を意見具申するが、早くからその考えを抱いていた。 |
| 1944年(昭和19年)に「千代田」艦長に就任し、小沢治三郎指揮下でレイテ沖海戦に参戦。 |
| おとり艦隊としてハルゼー艦隊の誘引に成功したが、「千代田」は撃沈された。 |
| 乗員に救助されたものはおらず、城を含め総員戦死であった。 |
特殊航空隊編成の意見書
| 城は綿密な日記を残しており現在公刊され海軍航空に関する貴重な研究資料となっている。 |
| 特殊航空隊の編成に就て。 |
| #目的『ソロモン』『ニューギニア』海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅するに在り。 |
| ##固有兵力 陸上偵察機 半隊(整備員は適宜臨時増量し、爆撃機の整備を担当せしむ)消耗兵力 攻撃機 制限なし。 |
| 搭乗員以外は最小限とす。 |
| ##攻撃機搭乗員者は操縦者一人のみとし、決死の志願者を募集採用し(差当り11AFより採用す)。 |
| ##攻撃機の機材 250キロトン爆弾以上を携行し得る陸上(艦上)機とし制限なし(差当り艦爆程度を適当とし、旧式機にても差支えなし、必要以外の艤装を撤去す)。 |
| #:『シートランド』 『ニューブリテン』方面の基地を使用す。 |
| ##偵察機により日施哨戒を行い敵艦船を発見次第爆撃機を発進攻撃す。 |
| ##攻撃は爆弾携行の体当たりとす。 |
| ##攻撃機の誘導に偵察機を使用することあり。 |
| #:差当り小官を指揮官に命ぜられ度、適宜後継者に譲る。 |
| ;特殊攻撃機性能要求。 |
| 最高速度…200ノット以上(時速370km)。 |
| 航続距離…800海里(1481.6km)。 |
| 兵装…500キロ爆弾1個(現用陸用爆弾充当)。 |
| 急降下爆撃機及空戦性能を必要とせず。 |
| 計器 速力計、高度計、羅針盤、発動機関係も最小限度とす。 |
| 儀装は極力簡単とし、大量生産に適せしむ。 |
| (差当りは艦爆、艦攻を充当、旧式にても可)。 |
| ;特殊攻撃機1機の攻撃による予期する効果。 |
| 主力艦…艦橋。 |
| 砲火指導所等の爆砕により重要戦力を喪失せしむ。 |
| 或は艦尾水線付近に自爆、推進器及舵機を破壊、運動力を喪失せしむ。 |
| 航空母艦…飛行甲板に急降下自爆し大中破、飛行機発着不能ならしむ。 |
| 特空母に対しては水線付近に自爆、撃沈を予期し得べし。 |
| 巡洋艦…艦橋又は水線付近に自爆、大破又は撃沈。 |
| 駆逐艦…仝右撃沈。 |
| 輸送船…水線付近に自爆撃沈。 |
| この意見書を、昭和18年6月29日に航空総務部長室にて、大西瀧治郎にこの話をしたと日記に記している。 |
| この時点では、大西中将に否定されているが、城大佐は、胸の内を明かしたことにより、心穏やかになったと述べている。 |
年譜
| 1899年(明治32年)4月1日-熊本県熊本市東坪井町生。 |
| 1916年(大正5年)8月31日-海軍兵学校入校入校時成績順位151名中第28位。 |
| 1919年(大正8年)10月9日-海軍兵学校卒業卒業時成績順位115名中第28位・任海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「吾妻」乗組。 |
| 11月24日-練習艦隊遠洋航海出発鳥羽~佐世保~基隆~馬公~香港~シンガポール~コロンボ~アデン~ポートサイド~ナポリ~マルセイユ~ツーロン~ビゼルタ~マルタ~ポートサイド~コロンボ~バタヴィア~マニラ~志布志方面巡航。 |
| 1920年(大正9年)5月13日-帰着。 |
| 5月31日-戦艦「扶桑」乗組。 |
| 8月1日-任海軍少尉。 |
| 1921年(大正10年)3月15日-2等巡洋艦「明石」乗組。 |
| 11月1日-横須賀鎮守府附。 |
| 12月1日-海軍砲術学校普通科学生。 |
| 1922年(大正11年)4月8日-海軍水雷学校普通科学生。 |
| 7月12日-巡洋戦艦「比叡」乗組。 |
| 12月1日-任海軍中尉。 |
| 1923年(大正12年)2月10日-霞ヶ浦海軍航空隊附。 |
| 5月21日-霞ヶ浦海軍航空術科学生。 |
| 5月31日-霞ヶ浦海軍航空隊附。 |
| 12月1日-任海軍大尉。 |
| 1925年(大正14年)1月7日-霞ヶ浦海軍航空隊教官兼分隊長。 |
| 1927年(昭和2年)11月15日-横須賀海軍航空隊附。 |
| 1928年(昭和3年)4月1日-航空母艦「赤城」分隊長。 |
| 12月10日-航空母艦「鳳翔」分隊長。 |
| 1929年(昭和4年)11月15日-霞ヶ浦海軍航空隊分隊長兼教官。 |
| 1930年(昭和5年)12月1日-海軍大学校甲種第30期学生。 |
| 1931年(昭和6年)12月1日-任海軍少佐。 |
| 1932年(昭和7年)11月26日-海軍大学校甲種卒業卒業時成績順位21名中第6位。 |
| 12月1日-横須賀海軍航空隊飛行隊長兼教官。 |
| 12月27日-兼海軍砲術学校教官。 |
| 1933年(昭和8年)2月2日-兼海軍水雷学校教官。 |
| 1934年(昭和9年)4月1日-在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官府補佐官兼艦政本部造兵監督官兼航空本部造兵監督官。 |
| 1936年(昭和11年)4月10日-帰朝。 |
| 8月10日-横須賀海軍航空隊教官。 |
| 11月16日-第2海軍航空戦隊参謀。 |
| 12月1日-任海軍中佐。 |
| 1937年(昭和12年)12月1日-第1海軍航空戦隊参謀。 |
| 12月15日-軍令部第2分第3課員兼大本営海軍参謀。 |
| 1938年(昭和13年)7月15日-兼海軍大学校教官。 |
| 7月20日-兼陸軍大学校兵学教官。 |
| 1939年(昭和14年)1月10日-免海軍大学校教官免陸軍大学校兵学教官。 |
| 11月15日-第13海軍航空隊副長。 |
| 1940年(昭和15年)11月1日-軍令部出仕。 |
| 11月15日-海軍侍従武官兼軍事参議院幹事。 |
| 1941年(昭和16年)10月15日-任海軍大佐。 |
| 1944年(昭和19年)1月20日-横須賀鎮守府附兼特務艦「摂津」艦長。 |
| 2月1日-聯合艦隊司令部附。 |
| 2月15日-航空母艦「千代田」艦長。 |
| 1968年(昭和43年)6月29日-勲二等旭日重光章受章。 |
| :墓所は横浜市瀬谷区観正寺に所在。 |
参考文書
| 戦史叢書・第56巻海軍捷作戦(2)(防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)。 |
| 侍従武官城英一郎日記(野村実編近代日本史料選書・山川出版社)。 |
| 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井篤・豊田隈雄編・中央公論新社)ISBN4-12-490040-6C0320。 |
| 高木惣吉日記と情報(みすず書房)ISBN4-622-03506-5C3031。 |
| 山本五十六(阿川弘之著・新潮社)ISBN4-10-300415-0C0093。 |
| 山本五十六再考(野村實著・中公文庫)。 |
| 米内光政(阿川弘之著・新潮社)ISBN4-10-300413-4C0093。 |
| 井上成美(阿川弘之著・新潮社)ISBN4-10-300414-2C0093。 |
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