| 1965年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、1年目のから一軍に定着。 |
| プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。 |
| 5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。 |
| 最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得。 |
| 入団時の背番号は21だったが、翌からはエースナンバー18を背負った。 |
| 27歳の若さで150勝を達成するなどまで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。 |
| 通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。 |
| には26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。 |
| この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない。 |
| V9を含め、巨人はまでセ・リーグMVPを独占したが、この間ON(王貞治・長嶋茂雄)以外で受賞したのは堀内が唯一。 |
| 1歳年下の江夏豊(阪神タイガース)とはライバル関係にあった。 |
| 江夏が堀内と呼び捨てに記者に話している事を聞きつけて、腹を立てていたという。 |
| ともに99勝で迎えた一戦で投げ合い、この時は堀内が完封で勝利して先に100勝を達成したが、150勝を懸けた試合でも対戦し、この時は江夏に軍配が上がっている。 |
| 守備では、ダイヤモンドグラブ賞を創設年のから7年連続で受賞。 |
| 非常にクイックがうまく、「世界の盗塁王」福本豊をして「全く癖が見抜けなかった」と言わしめ、一度も盗塁を成功させなかった。 |
| 日本シリーズでは、捕手が弱肩とされる森祇晶であったにもかかわらず福本には一度も盗塁を許していない。 |
| また、オールスターゲームで対戦した際にも、堀内がわざと一塁へ歩かせた福本を田淵幸一が刺している。 |
| 打撃では通算21本塁打を記録。 |
| 特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成し、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている。 |
| 投手による3打席連続本塁打は史上唯一。 |
| これに関して本人は現役引退後、「4打席目にホームランを打てずガッカリしてベンチに戻った際に他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。 |
| 『4打席連続本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』『あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか』と思った」と語っている。 |
| 1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。 |
| この2本塁打などの活躍で1972年、1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞している。 |
| 「悪太郎」とあだ名される通り、「鬼軍曹」と恐れられていた当時寮長の武宮敏明は巨人歴代三ワルとして王貞治、柴田勲と堀内を挙げている。 |
| 寮生活では門限破りの常習犯として知られていて、武宮の目を逃れるため風呂場の窓から入った、寮から抜け出すために非常用のはしごを買っていた、帰宅を待ち構えていた王に殴られた(『見かねた王の鉄拳伝説』)、ファンが家族を装って寮に電話をかけてきたために部屋を抜け出していたことが発覚したなどの逸話は数知れない。 |
| 本人曰く、門限破りで見つかったのは100回以上のうち3回だけとの事。 |
| 巨人では当時門限を一度破ると8万円、二度目は16万円と回を重ねるごとに罰金が倍になる決まりであったが、当時堀内の毎月の手取りは30万前後だったため、3回目の門限破りをした月には、給料袋にマイナス6万円と書いた紙が入っていたという。 |
| 外へ飲みに行っていたため、チームメイトと一緒に門限を破っていたわけだが、堀内一人が門限破りで見つかった時も、ほかのチームメイトのことは黙っていたという。 |
| しかし自らの監督時代には、キャンプ中の夜の外出を全面的に禁止した。 |
| ロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーからチェンジアップを学んだ。 |
| 新人の開幕連勝記録を更新中のとき、週刊朝日編集部がホームプレート上に光電式の速度計測装置を使用して測定した結果、155km/hを記録している。 |