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山本五十六
友達
新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死す... |
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井上成美
日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。親英米派(条約派)の米内光政、山本五十六の人脈に属し、日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反... |
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米内光政
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣... |
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山本権兵衛
日本の武士、海軍軍人、政治家。階級・位階・勲等・功級・爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。諱は盛武。進水式で祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょ... |
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加藤友三郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。海軍大臣、内閣総理大臣(第21代)などを歴任した。 |
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山梨勝之進
日本の海軍の軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた、所謂条約派の1人... |
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阿川弘之
日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。文化勲章受章。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作『山本五... |
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嶋田繁太郎
大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大将。東京都出身。 |
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吉田善吾
日本の海軍軍人。海軍大将。旧制佐賀中学校を経て、海兵32期を卒業。佐賀県出身。 |
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高木惣吉
日本の海軍軍人で最終階級は海軍少将。また東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。旧制中学課程を経ることなく海軍兵学校に進み、海軍大学校を首席で卒業す... |
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古賀峯一
友達
日本の海軍軍人。太平洋戦争において殉職した第28代連合艦隊司令長官である。最終階級は海軍大将。殉職後は特旨により元帥号を授与される。佐賀県西松浦郡出身。 |
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塩沢幸一
日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。文芸評論家の中沢臨川は兄。 |
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財部彪
日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。妻は山本権兵衛長女。 |
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秋山真之
大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位・勲二等・旭日重光章。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。母は貞。実兄に「日本騎兵の父」と云わ... |
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保科善四郎
日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。宮城県伊具郡北郷村(現・角田市)出身。 |
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山口多聞
大日本帝国海軍の軍人。ミッドウェー海戦において、第二航空戦隊司令官として戦死した海軍中将。太平洋戦争期の日本海軍を代表する提督として高く評価されて... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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石原莞爾
昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織... |
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寺島健
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。東條英機内閣の逓信大臣、鉄道大臣。和歌山県和歌山市出身。 |
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加藤寛治
明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身、福井藩士・海軍大尉加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。 |
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プロフィール
堀悌吉(ほりていきち、1883年(明治16年)8月16日-1959年(昭和34年)5月12日)は日本の海軍軍人。大分県杵築市出身。同期生の 山本五十六、後輩の 井上成美からの信頼が厚く、 山本権兵衛、 加藤友三郎らの系譜を継ぎ海軍軍政を担うと目されていたが、軍縮会議後の大角人事により中将で予備役に編入される。東條内閣の海相・ 嶋田繁太郎が、「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」と述べているように、その才幹を惜しまれた人物である。また"戦争自体は悪である"との持論を持っていた。
人物・来歴
| 大分県立杵築中学校から海軍兵学校(32期)入校。 |
| 席次は入校時190名中3番、卒業時192名中首席。 |
| 同期生の山本五十六、2期後輩の古賀峯一は遠慮のない親友の間柄であった。 |
| 堀は同期生が"神様の傑作のひとつ堀の頭脳"と述べたほどの秀才で兵学校、海軍大学校甲種、海軍砲術学校普通科学生を恩賜で卒業した。 |
| また芸術をよく好んだという。 |
| 「三笠」乗組として日本海海戦に参戦。 |
| ワシントン軍縮会議では随員を務め、全権・加藤友三郎を補佐。 |
| "国防は軍人の専有物にあらず"という加藤の言葉を筆記したのが堀である。 |
| 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦の比率は米英に対し7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。 |
| 軍務局長であった堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見をもち、会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。 |
| 結局は米国と日本の妥協が成立し、日本は対米比6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。 |
| しかし艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり。 |
| 海軍中央から遠ざけられる。 |
| 第3戦隊司令官、第1戦隊司令官を歴任し1933年(昭和8年)に海軍中将に昇進したが、翌1934年(昭和9年)、艦隊派が主動したいわゆる大角人事により予備役に編入された。 |
| このとき山本五十六は"巡洋艦戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか"と嘆き、自らも海軍を退くことを考えたという。 |
| しかし堀は山本を励まし思いとどまらせた。 |
| 1936年(昭和11年)1月、政府は堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告する。 |
| 日本は太平洋戦争の一因にもなった無期限軍備拡張の時代に突入した。 |
| 太平洋戦争中は、日本飛行機や浦賀ドックの社長を勤め、戦後は公職追放指定を受けた。 |
| 数社の役員、顧問等となり1952年(昭和27年)に追放指定は解除された。 |
述志
| 堀は山本が書き、その死後開封された「述志」二通を保管していた。 |
| この二通は堀が著書で内容を公開していたが、原本自体は不明であった。 |
| しかし堀の孫が大分県立先哲史料館へ寄贈した堀の遺品から発見され、2008年(平成20年)12月1日に公表された。 |
| この二通は1939年(昭和14年)5月31日と1941年(昭和16年)12月8日付けである。 |
年譜
| 1883年(明治16年)8月16日-大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)生。 |
| 1901年(明治34年)。 |
| 12月-杵築中学校中途退学。 |
| 12月16日-海軍兵学校入校。 |
| 1904年(明治37年)11月14日-海軍兵学校卒業。 |
| 「韓崎丸」乗組。 |
| 日露戦争勃発に拠り遠洋航海中止。 |
| 1905年(明治38年)。 |
| 1月3日-戦艦「三笠」乗組。 |
| File:Yamamotowithclassmates.jpg|Yamamotowithclassmates|right|300px|thumb|32期生集合写真。 |
| 前2列目、左から3番目が堀、一人置いて山本五十六。 |
| 3月1日-「亜米利加丸」乗組。 |
| 4月2日-戦艦「三笠」乗組。 |
| 5月27日-日本海海戦。 |
| 8月31日-任海軍少尉。 |
| 9月23日-戦艦「富士」乗組。 |
| 1906年(明治39年)。 |
| 2月26日-「姉川丸」乗組。 |
| 6月19日-戦艦「富士」乗組。 |
| 7月6日-3等駆逐艦「春風」乗組。 |
| 1907年(明治40年)。 |
| 1月18日-巡洋戦艦「筑波」乗組。 |
| 2月28日-遠洋航海出発シンガポール~ニュージーランド~ニューヨーク~ヨーロッパ方面巡航。 |
| 9月28日-任海軍中尉。 |
| 11月16日-帰着。 |
| 12月20日-海軍砲術学校普通科学生。 |
| 1908年(明治41年)。 |
| 4月20日-海軍水雷学校普通科学生。 |
| 7月31日-通報艦「淀」乗組。 |
| 1909年(明治42年)。 |
| 4月1日-通報艦「淀」分隊長心得。 |
| 10月11日-任海軍大尉・通報艦「淀」分隊長。 |
| 12月1日-海軍大学校乙種学生。 |
| 1910年(明治43年)。 |
| 5月23日-海軍砲術学校高等科第6期学生。 |
| 11月25日-海軍砲術学校高等科修了。 |
| 12月1日-戦艦「朝日」分隊長。 |
| 1911年(明治44年)12月15日-横須賀鎮守府附軍法会議判士。 |
| 1913年(大正2年)1月10日-フランス駐在陸海軍観戦武官。 |
| 1914年(大正3年)12月1日-任海軍少佐。 |
| 1915年(大正4年)。 |
| 7月1日-戦艦「扶桑」分隊長。 |
| 1918年(大正7年)。 |
| 11月26日-海軍大学校甲種卒業。 |
| 12月1日-海軍省軍務局員。 |
| 1919年(大正8年)12月1日-任海軍中佐。 |
| 1921年(大正10年)9月27日-ワシントン軍縮会議全権随員。 |
| 2月6日-横須賀鎮守府附。 |
| 12月1日-連合艦隊砲術参謀兼第1艦隊砲術参謀。 |
| 11月20日-軽巡洋艦「五十鈴」艦長心得。 |
| 12月1日-軽巡洋艦「五十鈴」艦長。 |
| 3月6日-海軍省出仕・官房服務兼軍政調査会幹事。 |
| 11月1日-軽巡洋艦「長良」艦長。 |
| 10月24日-軍令部出仕。 |
| 11月24日-外務省事務嘱託フランス出張。 |
| 2月1日-国際連盟陸海軍問題常設諮問委員会日本海軍代表。 |
| 1927年(昭和2年)。 |
| 12月1日-戦艦「陸奥」艦長。 |
| 1928年(昭和3年)12月10日-任海軍少将・第2艦隊参謀長。 |
| 1929年(昭和4年)9月6日-海軍省軍務局長兼将官会議議員。 |
| 1930年(昭和5年)4月2日-レジオンドヌール勲章受章(コマンドゥール)。 |
| 1932年(昭和7年)11月15日-第1戦隊司令官。 |
| 1933年(昭和8年)1月15日-任海軍中将・軍令部出仕。 |
| 4月29日-勲二等旭日重光章受章。 |
| 1936年(昭和11年)11月4日-日本飛行機取締役社長就任。 |
| 1942年(昭和17年)1月10日-大日本兵器取締役就任。 |
| 1947年(昭和22年)11月28日-公職追放令該当指定。 |
| 1951年(昭和26年)1月24日-新海軍再建委員会顧問。 |
| 1952年(昭和27年)2月25日-公職追放令該当解除。 |
| 1959年(昭和34年)5月12日-東京世田谷で死去。 |
参考文献
| 堀悌吉資料集・上下巻(芳賀徹監修・水交会)。 |
| 不遇の提督堀悌吉山本五十六、井上成美が尊敬した海軍の逸材の生涯(宮野澄著・光人社)ISBN4-7698-0535-7C0095ISBN4-7698-2120-4C0195。 |
| 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井篤・豊田隈雄編・中央公論新社)ISBN4-12-490040-6C0320。 |
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