| 母・西村志気は、東京の町家の娘。 |
| 浜之助には妻こうがいたが子がなく、堀家の嫡男として届けられる。 |
| 辰雄二歳の時、志気が辰雄を連れて堀家を去り、四歳の時、彫金師の上條松吉に嫁した |
| 府立三中から第一高等学校へ入学。 |
| 入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。 |
| また、高校在学中に室生犀星や芥川龍之介の知遇を得る。 |
| 一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。 |
| 東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。 |
| 堀の作品の独特の雰囲気は、この両者からの影響をうけたことともつながっている。 |
| 1926年に中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊。 |
| このころは、『水族館』などのモダニズムの影響を強くもった作品もある。 |
| 1927年、芥川龍之介が自殺し、大きなショックを受ける。 |
| この頃の自身の周辺を書いた『聖家族』で1930年文壇デビュー。 |
| 肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。 |
| また、病臥中にマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立った。 |
| 後年の作品『幼年時代』(1938年-1939年)にみられる過去の回想には、プルーストの影響を見る人も多い。 |
| 1933年、軽井沢で矢野綾子と知り合う。 |
| その頃の軽井沢での体験を書いた『美しい村』を発表。 |
| 1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。 |
| しかし、綾子はその冬に死去する。 |
| この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。 |
| この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。 |
| このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受け、王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。 |
| また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。 |
| 1937年、加藤多恵(1913年7月30日-2010年4月16日、筆名として多恵子を使用した)と知り合い、1938年、室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵と結婚。 |
| 身近な人を次々と亡くし、自身も肺結核と闘病する辰雄に多恵夫人は生涯尽くし続けた。 |
| 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。 |
| また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。 |
| なお『菜穂子』の登場人物「都築明」のモデルは立原道造であるともいわれている。 |
| (共に大学の建築学科出身で建築事務所に勤めているなど、いくつか共通点が見受けられる)。 |
| ちなみに、辰雄は立原道造を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い、慕っている。 |
| 戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。 |
| その点では、可能性を最大に発揮することのできなかった不幸な側面もあったといえよう。 |
| 1953年5月28日、多恵夫人にみとられながら没した。 |
| 『堀辰雄全集』は、友人の神西清や弟子たちの尽力で死後間もなく新潮社で全7巻が、1964年に新版が出された。 |
| 次に角川書店で、書簡を大幅に加えた全10巻が1960年代に刊行(限定版も出された)。 |
| 1977年から筑摩書房で全11冊(8巻と別巻2巻、第7巻は上下2冊で計11冊)の全集が、新たな書簡資料を発掘し厳密な校訂を加え出され、1980年に完結した。 |
| なお1996-97年に新版が刊行した。 |
| また、多恵夫人も〈堀多恵子〉の名で堀辰雄に関する随筆を多く書いた。 |
| 辰雄に尽くし続けた多恵夫人は2010年4月16日、96歳で没した。 |
| 彼のほぼ倍の人生を生きたといえる。 |