| 増田の進路をめぐっては、資生堂やダイエーなどからも誘いがあったが、高校時代と練習環境が大きく変わらないことを理由に、新たに陸上部を創設して瀧田と増田・樋口を受け入れると申し出た地元の川崎製鉄千葉(現・JFEスチール)に進んだ『おしゃべりなランナー』p111。 |
| 資生堂とダイエーはいずれも当時女子マラソン大会を後援していた企業である。 |
| このほか、瀬古利彦の師である中村清が増田にも興味を示し、瀧田に「増田を早稲田大学に入学させてくれないか」と持ちかけるも断られた、という話も伝えられている石井信「疾走する『求道者』瀬古利彦」『別冊宝島458マラソンに勝つ』宝島社、1999年、p88-89。 |
| 石井によると、瀧田が中村の勧誘を断ったのは、以前に別の女子選手を早稲田に推薦入学するよう依頼した際に中村から「早稲田大学競走部は女子を取らない」と門前払いを受けた経験があったからだという。 |
| 増田自身は中村からのスカウトについてこれまでコメントしたことはないが、大学に進学しなかった理由として「当時大学の陸上部は(女子の)指導者・選手とも実業団に先行している場はない」と考えたからだと著書で記している『おしゃべりなランナー』p110。 |
| 社会人になって最初のレースとなった、1982年5月2日の兵庫リレーカーニバル10000mでは自己記録を更新する32分48秒1の日本新記録で優勝。 |
| しかし、一週間後のスポニチ国際陸上5000mではラスト1周で佐々木七恵に抜かれ、長距離転向後初めて日本選手に敗れる。 |
| さらに、マラソンの記録も同年6月6日に再び佐々木に更新された途中計時の30キロの記録も更新。 |
| 6月下旬から7月にかけてノルウェーに遠征し、ビスレットゲームズの5000mとオスロのハーフマラソンに出場。 |
| 前者では11位ながら15分38秒29の日本新記録を樹立。 |
| 後者は女子マラソンの第一人者だったグレテ・ワイツをはじめベノイト、イングリッド・クリスチャンセンといったランナーが集う中、ワイツ、ベノイトに次ぐ3位に入賞する(クリスチャンセンは4位)。 |
| この結果から「自分を過大評価した」「関係者がオリンピックの成績に期待し、それが本番直前にプレッシャーになった」と増田は引退後に語っている読売新聞大阪本社編『山折哲雄こころ塾II』東方出版、2008年、p1032006年の山折哲雄との対談。 |
| 原文ではこのレースを「五輪の前年」と話しているが、正しくは前々年。 |
| この頃、貧血が再発し、練習後は1時間以上休養してからでないと帰宅できない状態になった。 |
| その背景には減量やレバーやほうれん草が苦手で食べられないといった事情があったが、病院に行くと練習できなくなる不安から、瀧田に貧血を明かさなかったという『おしゃべりなランナー』p112-114。 |
| こうした状況で1983年1月23日には、第1回の全国都道府県対抗女子駅伝に千葉県チームの一員として参加、優勝チームのアンカーとして記念すべき最初のゴールテープを切る。 |
| しかし、その1週間後の大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)では14.7km地点で貧血のため意識を失って昏倒、無念の途中棄権となった。 |
| 過度の練習と緊張、そして減量による栄養失調が原因だった。 |
| 大阪警察病院に収容され、ベッドで「これでもう陸上はやめよう」と考えていたときに、病院の外から「負けるなよ」と励ます声を聞き、思い直したという『おしゃべりなランナー』p116。 |
| その後、宗兄弟(宗茂・猛)の所属する旭化成陸上部との合同合宿に参加し、マラソンの楽しさを教えられる『おしゃべりなランナー』p117。 |
| 1983年6月の札幌タイムス20キロロードにオープン参加の形でレースに復帰し、優勝者よりも早いタイムでゴールした。 |
| 7月には前年に続いて北欧に遠征し、7月6日にはヘルシンキのワールドゲームズ3000mで4位ながら自己記録を更新する9分11秒95の日本新記録を出すなど復調ぶりを見せたこの3000mの記録は増田が作った最後のトラック日本記録となった。 |
| 9月11日にアメリカ・オレゴン州のマラソンで2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界記録でもあった)を再び樹立した途中計時の30kmも日本最高。 |
| 増田の記録は10番目だが、これはパフォーマンス順位(同じランナーが複数記録を出している場合もすべて掲載)のためで、パーソナル順位では8番目である。 |
| 、日本選手として初めて歴代ベスト10に入るものであった宇佐美彰朗『女子マラソンどうして強くなったのか』筑摩書房、1996年、p42。 |
| 翌年のロサンゼルス五輪女子マラソン代表をかけて、11月の東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障で欠場(佐々木七恵が優勝して代表を獲得)。 |
| 1984年1月、前回リタイアした大阪女子マラソンに出場する。 |
| ここでは前年と一変してレース終盤まで独走するが、東ドイツのカトリン・ドーレにゴール手前の40.9km地点で逆転を許す。 |
| 2月の横浜国際女子駅伝に日本チームの一員として出場後、オリンピック本番に向けたトレーニングに入った。 |
| 真夏のロサンゼルスでおこなわれるマラソンは高温が予想されたことから、「暑さに慣れるため」という理由で男子マラソン代表の宗兄弟と合同でニューカレドニアや宮古島、沖縄などで合宿を実施した『おしゃべりなランナー』p120。 |
| 周囲からの「がんばって」という言葉すら苦痛に感じるようになり、7月5日の川崎製鉄主催による最後の壮行会を無断欠席し、「失踪」と報じられる騒ぎになった『おしゃべりなランナー』p121、朝日新聞社会部(編)『人生それから』朝日新聞社(NDブックス)、1992年、P36-37、『山折哲雄こころ塾II』p103。 |
| のちになって、このとき適応障害を起こしていたと振り返っている季刊誌『ぺだる』vol.12(2010年秋号)、JKA(島村俊治との対談) |
| 臨んだ8月のロス五輪女子マラソン本番では序盤から飛び出したものの、ほどなく後退すると「先頭集団で走っていない」ことに耐えられず、16km付近で再び途中棄権となってしまった(なお佐々木七恵は完走するも19位、二人共にメダル・入賞ならず)。 |
| レース後の取材に対し、増田は涙を流しながら返答する様子が新聞に報じられていた当時は脱水症状を起こしていたとのみ報じられており、増田が自らのプライドのために棄権したと明かしたのはのちになってからである。 |