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士仁
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三国時代
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プロフィール
士仁とは
生涯
物語中の傅士仁
参考文献
士仁(しじん、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期から三国時代にかけての武将。後漢末期に劉備に仕え、後に三国時代の呉の武将となった。字は君義。広陽郡の人。『三国志』
楊戯
伝に引用する『季漢輔臣賛』などでは「士仁」とするが、関羽伝でのみ「傅士仁」となっており、『資治通鑑』『三国志演義』などもこの誤りを継承している。
生涯
劉備に仕える将軍として荊州の公安城(江州(重慶)に隣接する)に駐屯し、南郡太守である糜芳と共に荊州の守備を任されていた。
二人とも荊州の軍事総督である関羽と常日頃から折り合いが悪く、関羽が樊城に向けて出陣すると、二人は軍需物資の補給などの後方支援に全力を尽くさなかった。
その事を恨みに思った関羽は、「わしが凱旋し帰還した暁には、こやつら(糜芳・士仁)を粛清してやる」と怒気をあらわにした。
以後、「関羽に誅殺される」と先行きに不安を感じるようになり、両人とも行動が定まらなくなった。
樊城に出陣した当初、関羽は
呂蒙
を警戒して南郡(糜芳)・公安(士仁)の下に兵力の一部を残していた。
呂蒙
はこの残存兵力が戦略上の障害となることから、計略を巡らせていた。
呂蒙
は、自身が病を偽って前線を退くことで関羽を油断させ、その隙に南郡を攻め取る事を
孫権
と共に謀った。
この計略に引っかかった関羽は、以後は南郡・公安の守備兵を減らして樊城攻略に充てるまでに至るが、この間も南郡攻略の計画は着々と進んでいた。
士仁が降伏勧告の使者である
虞翻
と接触した時には、商船に偽装された
呂蒙
の軍船が、守備側の劉備軍に気づかれることもなく荊州の奥深くにまで侵入しており、包囲は時間の問題となっていた。
士仁は、涙ながらに降伏した。
物語中の傅士仁
小説『三国志演義』では
虞翻
の親友とされる。
222年、劉備が関羽の敵討ちで攻めて来た蜀漢軍に怯え、糜芳と共に
馬忠
を斬り、その首級を持って呉から離反する。
しかし、劉備に命乞いしたが許されず、関羽の子である
関興
に斬首されることになっている。
参考文献
『三国志』蜀書15
楊戯
伝。
同蜀書6関羽伝。
同呉書9
呂蒙
伝。
士仁 - Wikipedia
より要約
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