| 夏侯玄や李勝・鄧颺・諸葛誕ら当時の名士は互いに称号を付け合い、夏侯玄は「四聡」の1人に数えられた。 |
| しかし、曹叡はこれを軽薄な評判をもてはやす風潮として嫌い、彼らを免職にしたという郭頒『世語』。 |
| なお、この記事では「散騎常侍の夏侯玄」とあるが、正史の本文に従うと、夏侯玄が散騎常侍になったのは曹叡の死後である。 |
| 正始年間初期、幼帝曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。 |
| 当時、曹爽の側近の1人で学者としても高名な何晏と並ぶ評判を有していた。 |
| 何晏・夏侯玄は司馬師とも交際し、何晏は夏侯玄と司馬師それぞれに優れた人物であると評価した(『魏氏春秋』)。 |
| 一方で、傅嘏には評価されなかった(「傅嘏伝」)。 |
| 中護軍としては蒋済の後任であったが、当時横行していた賄賂の風習を夏侯玄の代になってもやはり止めさせることができなかったと言われている(『魏略』)。 |
| しかし、人を見る目があったため、優れた人物を武官に抜擢し、俊英や豪傑ばかりとなったとも伝わっている(『世語』)。 |
| あるとき、太傅である司馬懿から政治について意見を求められると、九品官人法を批判し、中正官の権限縮小を主張し、さらに地方制度の抜本的な改正意見も述べた。 |
| 司馬懿は夏侯玄に返書を送り、優れた人物が出ない限りその政策は実施できないだろうと述べた。 |
| 夏侯玄はさらに返書を送り、司馬懿の消極的な姿勢を非難した。 |
| その後、征西将軍・仮節都督雍涼州諸軍事(雍州と涼州の軍事指揮官)に昇進した。 |
| 友人であった李勝を長吏に取立て重用し、244年には、李勝の進言を受けて曹爽と共に蜀(蜀漢)へ侵攻したが、輸送に苦しみ、大きな被害を出しつつ何ら得ることなく帰還したため、多くの批判を受けた(駱谷の役)。 |
| 249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。 |
| このとき、夏侯覇に、ともに蜀に亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。 |
| 夏侯玄は曹爽との関係を理由に抑圧され、不遇の日々をかこっていた。 |
| 人事に関与せず、美女を側室におこうともしなかったという(『魏略』)。 |
| 司馬懿が死去すると、友人の許允は安心したが、夏侯玄は司馬師や司馬昭は自分達に対して遠慮はしないだろうと述べ、許允の見通しの甘さを予測した。 |
| 中書令の李豊は、大将軍の司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せ、司馬師を誅殺して夏侯玄を大将軍とし、政権を握らせようと考え、曹芳の皇后の父の光禄大夫張緝らと計画をめぐらした。 |
| しかし、計画は事前に露見し、司馬師に機先を制されて、夏侯玄らは捕らえられ、廷尉の鍾毓の元に送られた。 |
| 鍾毓の取調べのときにも夏侯玄は堂々としており、鍾毓が作成した供述書を涙を流しながら見せると、夏侯玄は黙って頷いたという(『世語』)。 |
| 結局、夏侯玄は李豊らとともに大逆の罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。 |
| 46歳であった。 |
| 斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。 |
| 後に反乱を起こした毌丘倹と諸葛誕は、ともに夏侯玄の友人であった(「毌丘倹伝」、「諸葛誕伝」)。 |
| 正元年間に入り、功臣達の家を継がせることになったとき、夏侯玄の従子(おい)である夏侯本が、夏侯玄の跡継ぎとして認められ、昌陵亭侯に封じられ300邑を領した。 |
| 夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。 |
| その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという(『魏氏春秋』)。 |
| 『三国志演義』にも登場し、李豊らと司馬師の誅殺を企てるが発覚し、司馬師を罵倒しながら処刑される。 |