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つながりの強いひと
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木戸孝允
幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士で、明治初期... |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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岩倉具視
贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。 |
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牧野伸顕
日本の政治家。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。名はシンケンと通称されることもある(有職読み)。以前の諱は是利。 |
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佐々木克
日本の歴史学者。奈良大学教授、京都大学名誉教授。専門は日本近代政治史。秋田県出身。2004年までの8年間、NHK教育テレビ「歴史でみる日本」を担当 |
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島津久光
江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。... |
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島津斉彬
江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主(在任:嘉永4年(1851年)-安政5年(1858年))。島津氏の第28代当主である。 |
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板垣退助
対立
日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。位階勲等爵位は従一... |
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島田一郎
明治時代の不平士族。一名に一良(いちろう)、朝勇(ともいさみ)。大久保利通を暗殺した紀尾井坂の変で有名。 |
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大久保利世
大久保利世(おおくぼとしよ、寛政6年(1794年)-文久3年(1863年))は江戸時代の薩摩藩士。通称は次右衛門。号は子老。隠居後、冠雪とも称したらしい。大久... |
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横井小楠
日本の武士(熊本藩士)、儒学者、政治家。維新の十傑の1人。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招... |
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高杉晋作
日本の武士(長州藩藩士)。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一... |
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落合功
日本の歴史学者、経済学者。広島修道大学商学部教授。博士(史学)。神奈川県出身。 |
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毛利敏彦
千葉県出身の日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。明治維新史学会顧問。専門は日本近代史(政治史・外交史)。九州大学大学院博士課程修了(日本政治外交... |
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次右
Web上に掲載されているデータを引用しています。 同じ地域の税理士一覧 渋谷区 | 文京区 | 八王子市 | 新宿区 | 小金井市 | 世田谷区 | 東久留... |
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西郷従道
日本の武士・薩摩藩士、陸軍軍人、海軍軍人、政治家。元老。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功二級・侯爵。西郷隆盛の弟。なお、名前の読みとして「つぐみち... |
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西郷隆盛
友達 対立
日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通・や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でも... |
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黒田清隆
薩摩藩士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階はは従一位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。通称は仲太郎、了介。新字体で黒田清隆(くろだきよたか)と表記... |
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中岡慎太郎
日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など... |
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プロフィール
- 大久保利通とは
- 生い立ち
- 幕末
- 倒幕・王政復古
- 明治維新後
- 「大久保政権」
- 暗殺
- 人物・逸話
- 仕事ぶり
- 嗜好
- 士族反乱〜最期
- 略系図
- 家族・子孫
- 官位及び栄典の履歴
- 参考文献
- テレビドラマ
- 関連サイト
大久保利通(おおくぼとしみち、文政13年8月10日(1830年9月26日)-明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、 西郷隆盛、 木戸孝允と並んで「 維新の三傑」と称される。また 維新の十傑の1人でもある。
生い立ち
| 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。 |
| 大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。 |
| 幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。 |
| 武芸は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという毛利敏彦『大久保利通』(中公新書)、5頁より。 |
| 天保5年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗るが、後に改名する。 |
幕末
| 弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕する。 |
| 嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。 |
| 以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。 |
| 島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。 |
| 安政4年(1857年)10月1日、西郷とともに徒目付となる。 |
| 精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近する。 |
| 篤の兄で吉祥院の住職・乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。 |
| 万延元年(1860年)3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となる。 |
| 文久元年(1861年)10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となる御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。 |
| なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である大山綱栄や調所広郷がいる。 |
| 文久元年12月15日(1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。 |
倒幕・王政復古
| 文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。 |
| 同年5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。 |
| この昇進により、小松清廉、中山中左衛門と並んで久光側近となる。 |
| 文久3年(1863年)2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する市来四郎の日記に、「速なる昇進にて、人皆驚怖いたし物議甚しく候」と書かれるほどの異数の大抜擢だったという。 |
| 慶応元年(1865年)1月下旬~5月の間に利通と改諱する(久光の七男・真之助が元服し、久済と名乗ったため、「済」の字を避諱したという大久保利通日記1)。 |
| 慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。 |
| 慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。 |
| しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。 |
| 小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎・寺村道成・真辺栄三郎・福岡孝弟、浪人の坂本龍馬・中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。 |
| 武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。 |
| なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。 |
| 10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。 |
| しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古のクーデターを計画して実行する。 |
| 王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。 |
明治維新後
| 慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張する。 |
| 明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。 |
| 明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。 |
| 外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。 |
「大久保政権」
| 明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。 |
| そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。 |
| 明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。 |
| また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大使として9月14日に清に渡った。 |
| 交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。 |
| また、出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出したこれが、管船政策の濫觴となった。 |
| 寺島成信『帝国海運政策論』巌松堂書店、1923年、第二篇「本邦海運政策の沿革」第一章「海運政策の変遷」第一期「本邦海運の萌芽発育時代(明治維新より日清戦役に至る)」二「本邦海運政策の濫觴」に、「八年五月大久保内務卿の建議」「八年九月三菱に対する政府命令書と航海補助金」「本邦近代的海運政策の起原」「三菱と米英船との競争」の項。 |
| 逓信省『逓信事業史第6巻』逓信協会、1941年、第十篇「管船」第三章「海運及造船事業に関する政策及法令」第一節「明治前期」第三款「大久保内務卿の海運政策樹立建白」。 |
| 大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。 |
| 明治6年(1873年)以降の大久保存命中の政権は、一般に「大久保政権」と呼ばれる。 |
| 当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。 |
| また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。 |
| 明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。 |
| また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。 |
| その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。 |
人物・逸話
| 身長:175~178cm、体重:65~70kg。 |
| 血液型はO型。 |
| 座右の銘:「為政清明」、「堅忍不抜」。 |
仕事ぶり
| 金銭には潔白で私財をなすことをせず、必要だが予算のつかなかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めていたために死後は8,000円もの借金が残った。 |
| 政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。 |
| 桐野利秋も大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれすぐに引き下がったといわれる。 |
| 他にも若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛さえも、大久保の前ではほとんど意見できなかったという。 |
| 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと千坂高雅が語っている。 |
| 大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省で伊藤博文の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 |
| 福地源一郎は大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。 |
| 大隈重信は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。 |
| 明治6年(1873年)に五代友厚に浜寺公園へ案内された大久保は、堺県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり」と反対する歌を詠んだ祐子内親王家紀伊、小倉百人一首「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」の本歌取り。 |
嗜好
| 島津久光に接近するために、碁を学んだとの話も伝えられるが誤りで、嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。 |
| ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。 |
| 茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。 |
| 朝食には珈琲と、ブランデーを少し垂らしたオートミールを好んだ司馬遼太郎『翔ぶが如く』より。 |
| 明治8年から1年かけて、麹町三年町(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。 |
士族反乱〜最期
| 征韓論で対立した江藤新平との確執で知られ、佐賀の乱で江藤が死罪となった際には日記に江藤への罵倒ともとれる言葉を残している。 |
| このことから「江藤を死罪にした裁判長の河野敏鎌は大久保から1,000円で買収された」司馬遼太郎『歳月』「上京していた江藤の弟源作を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』など当時から現在に至るまで様々な創作、風説を生み出している。 |
| 鹿児島が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。 |
| 明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。 |
| 大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にある。 |
略系図
| 戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。 |
| ┣利貞 ┣伸顕━伸通┣利正 ┗成子。 |
| ┗利世 ┣利武 ┗通忠。 |
| ┣利夫。 |
| ┣雄熊。 |
| ┣駿熊。 |
| ┣七熊。 |
| ┣芳子。 |
| ┗利賢┳利春。 |
| ┣利秀。 |
| ┗利康。 |
家族・子孫
| 満寿子との間には長男・大久保利和、次男・牧野伸顕、三男・大久保利武、五男・石原雄熊、長女・芳子が生まれた。 |
| 大久保には妻の外におゆう杉浦勇、京都・祇園のお茶屋一力亭の9代目主人・杉浦治郎右衛門為充の娘。 |
| 芸妓か?という愛妾が居り、おゆうとの間に四男・大久保利夫、六男・大久保駿熊、七男・大久保七熊、八男・大久保利賢を儲けた。 |
| もう一人の孫大久保利春は丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。 |
| 曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(第92代内閣総理大臣)、武見敬三(元参議院議員)がいる。 |
官位及び栄典の履歴
| 明治元年閏4月21日(1868年6月11日):従四位(辞退)。 |
| 明治2年6月2日(1869年7月10日):従三位、永世賞典禄1,800石。 |
| 明治11年(1878年)5月15日:贈正二位右大臣。 |
参考文献
| 清沢洌 『外政家としての大久保利通』中公文庫、1993年、初版中央公論社、1942年。 |
テレビドラマ
| 『田原坂』(1987年・日本テレビ年末時代劇スペシャル演:近藤正臣)。 |
| 『JIN-仁-』(2011年・TBS日曜劇場演:眞島秀和)。 |
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1830年
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大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8... |
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1844年
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元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済... |
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