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つながりの強いひと
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鑑真
奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。 |
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橘奈良麻呂
奈良時代の貴族。左大臣橘諸兄の子。正四位下・参議。贈正一位・太政大臣。2代目橘氏長者。 |
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藤原清河
藤原清河(ふじわらのきよかわ、生年不詳-宝亀9年(778年))は奈良時代の貴族。藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。母は片野朝臣の娘。唐名は河清。官... |
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藤原仲麻呂
奈良時代の公卿。名は仲麿または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智... |
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吉備真備
日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。下道真備(しもつみちのまきび)、吉備下道真備(きびのしもつみちのまきび)などとも呼ば... |
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阿倍仲麻呂
奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果た... |
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孝謙天皇
日本の第46代天皇(在位:天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)-天平宝字2年8月1日(758年9月7日))。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后... |
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大伴家持
大伴家持(おおとものやかもち、養老2年(718年)頃-延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言... |
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聖武天皇
聖武天皇(しょうむてんのう、大宝元年(701年)-天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日)-天平勝宝元年7月2日(749年8月19... |
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玄宗
唐の第6代皇帝(在位:712年-756年)。諱は隆基。治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因... |
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文武天皇
日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日)-慶雲4年6月15日(707年7月18日))。諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続... |
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黄文王
奈良時代の皇族。左大臣・長屋王の子。母は藤原不比等の娘長娥子。官位は従四位上・散位頭。 |
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慶雲
原田慶雲作品 略歴 大正11年4月17日 静岡市二番町に生まれる 平成22年5月3日逝去(行年89歳)
家具職人として腕を研き、後にポーラ化粧品草薙工場に勤務し... |
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長屋王
奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。 |
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大伴御行
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に... |
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大伴継人
奈良時代後期の官僚。姓は宿禰。左大弁大伴古麻呂の子。子に山道・国道、孫に善男がいる。従五位下・左少弁。777年(宝亀8年)遣唐使判官として入唐、翌778年... |
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阿部仲麻呂
現代日本の神学者。神学博士(上智大学)。日本カトリック神学会評議員。上智大学大学院神学研究科(神学)および日本カトリック神学院(哲学・神学)兼任講... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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藤原種継
奈良時代末期の公卿。藤原式家の祖、参議・宇合の孫。無位・藤原清成の長男。官位は正三位・中納言、贈正一位・太政大臣。 |
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橘諸兄
奈良時代の政治家・元皇族。敏達天皇の後裔で大宰帥美努王の子。元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおおきみ)。正一位・左大臣。井出左大臣または西院大... |
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プロフィール
大伴古麻呂(おおとものこまろ、生年不詳-天平宝字元年7月4日(757年7月24日))は奈良時代の貴族。父親については複数の説があり確実なことは不明だが、右大臣 大伴長徳あるいは大納言 大伴御行の子とする系図が見られる。子に竹良・継人がいる。官位は正四位下・左大弁。
経歴
| 天平4年(732年)遣唐留学生として入唐。 |
| 帰朝後、天平10年(738年)兵部大丞。 |
| 天平勝宝元年(749年)左少弁。 |
| 天平勝宝4年(752年)遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。 |
| 天平勝宝5年(753年)正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。 |
| 古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている副使大伴宿禰古麻呂自唐國至。 |
| 古麻呂奏曰。 |
| 大唐天寶十二載。 |
| 歳在癸巳正月朔癸卯。 |
| 天子於蓬莱宮含元殿受朝。 |
| 以我次西畔第二吐蕃下。 |
| 以新羅使次東畔第一大食國上。 |
| 古麻呂論曰。 |
| 新羅之朝貢大日本國久矣。 |
| 時将軍呉懐實見知古麻呂不肯色。 |
| 次西畔第二吐蕃下。 |
| 以日本使次東畔第一大食國上。 |
| (『続日本紀』天平勝宝6年正月丙寅条)。 |
| 天平勝宝6年(754年)帰国の際、遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。 |
| 大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断でこれを許して副使船に乗船させた。 |
| 帰路、大使船は暴風雨に遭い、南方に流されて帰国できなかったが(清河は唐で客死)、副使船は無事帰国して鑑真を来日させることができた。 |
| 同年、左大弁に任じられる。 |
| 天平宝字元年(757年)3月聖武天皇の遺言により皇太子に立てられていた道祖王が孝謙天皇の勘を受けて廃太子される。 |
| 4月孝謙天皇は群臣に新太子を諮ると、右大臣藤原豊成は塩焼王を適当とし、古麻呂は池田王を推したが、天皇の意中は大納言藤原仲麻呂の推す大炊王であり、大炊王が立太子された。 |
| 仲麻呂は孝謙天皇の信任が厚く、専横が著しかったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策する。 |
| 奈良麻呂・古麻呂らが一味して兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃し、塩焼王・道祖王・安宿王・黄文王の中から天皇を推戴するという計画であった。 |
| 同年6月、古麻呂は陸奥鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられ、橘奈良麻呂は左大弁に移され兵権を奪われた。 |
| 7月3日、山背王らの密告により反乱計画は露見。 |
| 奈良麻呂・古麻呂・道祖王・黄文王らは捕えられ、翌日、杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した。 |
| (橘奈良麻呂の乱)。 |
| 絵巻物である『鑑眞和上東征傳』に大伴古麻呂が登場する。 |
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