| 大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋に父・八雄、母・トクの三男として生まれた。 |
| 祖父の八右衛門は、嫁入りの日に差し押さえを受けるような貧しい所から富を作ったが、法廷へ出るのに衣類が無くて薦を被って行ったという者の金まで絞り取る程の残酷な人だったが妻子には甘かった、と大宅壮一自身が書き残している。 |
| 父は『14歳より放蕩を始め、青年時代に法律を志して弁護士試験に失敗し、中年よりは選挙、警察界に足を入れて産を傾け、最後に生涯離さなかった酒の為に死んだ。 |
| 父は寡黙、寛大、鷹揚で、殊に他人の物と我が物とを区別する観念が甚だ乏しかった』大宅壮一『青春日記』。 |
| 放蕩の一端として『芸者を総上げして遊び廻ったり、角力のある毎に酒樽の鏡を抜いて自由に飲ましてやり、入浴に若い力士二三人に肩を流させたりした』大宅壮一『青春日記』。 |
| 何人もの返済の当ての無い者に大金を恵むも同然に貸していた為、人望は厚く名士であった。 |
| また醤油製造の仕事はきっちりこなしていた。 |
| 兄の勇一も放蕩者であり得意先や掛取で頭を下げるのを嫌った為、家業はもっぱら壮一の肩に任された。 |
| なおこの兄は大正5年に放蕩の末病を得て実家に戻り、大正6年に徴兵され近衛騎兵に配属、同年末、朝鮮鎮海湾の要塞の砲兵大隊に合格し転勤する。 |
| 母は富田に近い福井村出身であった。 |
| いつも目を赤く腫らしているような神経質な人であった。 |
| セイ、ユウという姉が二人おり、ユウは大阪の質屋の永井家に嫁いだ。 |
| 弟の活男がいた。 |
| 旧制富田尋常小学校、高等小学校を卒業。 |
| 小学校を卒業後は大阪へ“商業見習”に出るつもりであった。 |
| 大阪の姉のもとへ修行へ出たりしている。 |
| この時に、丁稚や番頭らと質草の値踏みの練習を毎晩したが、壮一は番頭よりも値踏みが上手であったという。 |
| 一方で親友が遠く離れて勉学に勤しむ姿に触発され、自身も中等学校への進学を親族に頼み込み、承諾を得た。 |
| 入学の申請書類を小学校へ受け取りに行ったのはなんと中学校の入学試験の前日であったという。 |
| なお、小学校時代からの友人に大川光三がいる。 |
| 旧制茨木中学(現大阪府立茨木高等学校)入学。 |
| 一般的には尋常小学校を出て中等学校へ進むところを、高等小学校を出てから中等学校へ進んだため、同級生より年長であった。 |
| 川端康成が三学年上に在籍していた。 |
| 登下校時に寄った『虎谷』という書店は、川端も利用していた。 |
| 在学中の成績は良好だったものの、唯一“唱歌”の科目のみ苦手だったらしい。 |
| 実家の家業を支える一方で勉強が手につかなくなったりしていた。 |
| 当時の中学生向けの雑誌『少年』『少年倶楽部』などに作文や俳句を投稿したものが選ばれてメダルや昆虫採集用の虫籠など多くの懸賞を得ている。 |
| この頃、学内では大宅に関して、『部屋の四方をめぐらす鎖ほどのメダルを投稿で得ている』という噂され、川端康成も耳にしていたという。 |
| 中学在学中の将来の夢は、まだジャーナリストではなく、渋沢栄一やカーネギーのような実業家であったり(実家の醤油業が傾いていた事に因る)、文学者、渡米して学者、であったりしている。 |
| 家業をこなしつつ文学に親しむ一方で、ドイツ語とフランス語を独習していた。 |
| やがて教育勅語への疑問、米騒動の支持などから中学校からは好ましからざる生徒と目された。 |
| また、街の教会に講演に来た賀川豊彦に出会い、こころひきつけられる。 |
| 中学校での友人の中には、秀才の寄気実英がいる。 |
| 兄が家の金を持ち出して行方をくらました際に、父に兄の探索を命じられて大阪の松島遊郭を一軒々しらみつぶしに探し歩いた事もあるという。 |
| 1918年(大正7年)、18歳(旧制茨木中学4年生)の時、米騒動に際して民衆蜂起を支持する演説をおこない、中学校を放校処分となる。 |
| 前後して父死去。 |
| 専門学校入学者資格検定試験(通称・専検、当時存在した旧制中学卒業と同等資格)に合格し旧制高等学校入学資格を得る。 |
| 1919年(大正8年)、第三高等学校に入学。 |
| 三高では茨木中学で一学年上であった文学好きの秀才・小方庸正と同級生となる。 |
| 小方とは茨木中学時代から親交があり、時に病に伏せる小方が大宅に死の覚悟を打ち明けたりしている。 |
| 学生生活は、弁論部に所属したり、校友会雑誌『嶽水会雑誌』に投稿をした。 |
| 三高在学中に茨木中学校で制服に関するストライキが起きたが、背後に壮一の暗躍があったと言われている。 |
| 兼ねてより心酔していた賀川豊彦が1921年(大正10年)に携わった川崎造船所の大規模ストライキには、馬上で指揮する賀川の伝令役を務めた。 |
| 三高在学中の壮一はマルクス主義に傾倒していたという。 |
| 父を失い兵役にある兄に代わり家業を手伝わねばならないため、京都の吉田までは実家から汽車で通った。 |
| 登校途中の汽車内で、同じく大阪の実家から病気のために汽車通学をする梶井基次郎と出会う(旧制高校生は白線帽に独自の徽章を付けているので出先でも仲間を見つけ易い)。 |
| 梶井は一年次は寮生活をしていたが、病気で実家からの通学に変更した。 |
| 大宅は梶井と仲良くなり文学や恋愛を語り合った。 |
| また大宅と同じクラスであり、梶井とは寮で同室だった中谷孝雄が二人の友として加わる。 |
| 兵役を終えているはずの兄が戻らぬため、兄が所属する大隊の本部がある馬山へ探しに行った。 |
| 三高在学中には大川光三より紹介された加島銀行員の女性と主に手紙を通じて交際をしている。 |
| 後に最初の妻となる山本和子である。 |
| 和子はいわゆるモダンガールだった。 |
| 後、三高卒業と同時に結婚する。 |
| 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部社会学科入学。 |
| 帝大時代の大宅は小倉の袴にオールバックという出で立ちだった。 |
| 大学1年の時に妻和子を東京へ呼び、下落合に間借りするも、生活費を稼ぐために東京帝大へ通学する傍ら、夜は下谷の岩倉鉄道学校で夜学の英語教師をした。 |
| また、長女が誕生している。 |
| 東大新人会にも片足を突っ込んでいる。 |
| 大学2年の夏、帰省していた故郷から東京へ戻るため汽車に乗っていた1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生する。 |
| 汽車は鉄道破損のため沼津より先へは進めず、東京の妻子を心配した大宅は徒歩で箱根の山を越え東京下落合の家へ向い家族の無事を確かめている。 |
| しかし日本フェビ・アン協会の活動を通じて出会った近藤愛子と親しくなると妻和子も浮気をし、離婚に至る。 |
| 愛子と再婚するも後に結核で亡くなる。 |
| 娘は他家へ預けた。 |
| 三高で同級生であった小方庸正と第七次『新思潮』の同人となる。 |
| なお第六次『新思潮』は茨木中学の先輩でもある川端康成らの手に成る。 |
| 川端とは新思潮の引継ぎで出会い、文学を通じて仲良くなる。 |
| 後に川端が秀子夫人と結婚し杉並町に家を持つと隣に大宅夫婦も越して来た。 |
| 在学中よりジャーナリストの道に入るも、大学を中退。 |
| 「ほとんど学校に出ず、授業料も納めなかったらいつのまにか除籍されてしまった」と振り返っている。 |