| 徳川時代から庄屋を務め、明治期には戸長(村長)という家に生まれる。 |
| 岩倉鉄道学校、中央大学法科卒業。 |
| 中央大学在学中に鉄道院に入る。 |
| 鉄道省事務官時代は地方鉄道の経理知識に長け、計数管理では省内随一と言わしめた。 |
| 鉄道省時代の上司に佐藤栄作がいた。 |
| 1942年12月、鉄道省の先輩である五島慶太にヘッドハンティングされる形で東京急行電鉄に入社。 |
| 次長、事業部長、専務をへて、1951年副社長に就任。 |
| 五島の右腕として大いに辣腕をふるった。 |
| この間、大東急分裂騒動に巻き込まれ、分離推進派・非分離派の双方に関わり、双方の立場から東急再建について検討した。 |
| 現在の京王・小田急・京急を分割する再編成案は大川が三日三晩一睡もせず起草したものである。 |
| この他、1946年には東急がプロ野球チーム・セネタースを買収した際、担当者としてオーナーに就任。 |
| 同球団を「東急フライヤーズ」と命名して経営に当たった『東急五十年史』475ページ東京急行電鉄1973年。 |
| 1949年のパシフィック・リーグ(パ・リーグ創設にあたり、初代会長にも就任した。 |
| また命名でいえば神奈川県のタクシー大手・神奈川都市交通(発足当初は東急系)の名付け親でもある。 |
| 大川は五島が公職追放にあった期間中も東急の主要人物として経営の根幹に携わっていた。 |
| 1951年2月、東京映画配給(東映)社長に就任。 |
| 同社は当時極度の債務超過で多重債務に陥り、経営状況は深刻であった。 |
| 東映を何とか東急グループの主軸に育てようとした五島の強い意向によるもので、大川は徹底した予算管理と原価管理を遂行。 |
| 主な資金調達源を市中の高利貸しから銀行融資へ徐々に切り替えた。 |
| 『ひめゆりの塔』のヒットもあって、業績は徐々に回復。 |
| 時代劇解禁と共に、時代劇スターを多く揃えた東映の業績は好転した。 |
| 岡田茂(現東映相談役 元会長)によると、五島に「東映の再建に成功した場合、自分の死後の東急グループの経営を君に任せる」と約束されていたらしいが、口約束だったのでその約束は破られた。 |
| 1954年、以前より携わっていたプロ野球・東急フライヤーズの経営を東映に委託(さらにその子会社の東映興業に運営を移管)させ、引き続き東映フライヤーズオーナーとして経営に当たる。 |
| 1962年、パ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズも阪神タイガースを破り念願の日本一になった際、背番号100のユニフォームを着用して水原茂監督や選手達と共に優勝パレードに加わったが、あまり表舞台は好まなかったという声もある。 |
| 1953年に視察旅行したアメリカでのテレビの盛況を目の当たりにし、来るべきテレビ時代に先手を打ち、映画事業1本に頼らない経営の多角化に乗り出した。 |
| 1956年には、日動映画を買収し、同社を東映動画(現在の東映アニメーション)と改称。 |
| 本格的なアニメーション制作にも進出した。 |
| 東映動画はテレビアニメーションやテレビCMを制作してテレビ時代を見据えたものであり、輸出産業ともなる目論見だった。 |
| 1950年代後半、時代劇ブームを巻き起こし売上は業界No.1となる。 |
| 1960年には、現代劇制作を中心とした第二東映を設立して製作本数を倍増させ、日本映画界のシェア50%を目指すが失敗し、ニュー東映と名を変え、1961年に東映本体に吸収される。 |
| 1959年には、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)を旺文社など教育関係者や日本経済新聞社とともに開局させる。 |
| ただし、本邦初の民間教育放送局として開局した同局の経営は厳しく、大川は1960年同局社長に就任後、対外呼称を「NETテレビ」に改め、総合局化を図り、同局の経営改善に取り組んだ。 |
| この間において、東急グループとの溝も深まり1962年には東急派と見られていた岡田茂を京都撮影所から東京撮影所に異動させている。 |
| さらに、東映本社内にテレビ部を設け東映社内でNo.1セールスを上げていた渡邊亮徳をテレビ事業部責任者に任せる事で、日本テレビ史上群を抜いた漫画、アニメ、ビデオ、テレビ文化を築いて行く事になった。 |
| 東映テレビプロダクション、東映京都テレビプロダクションなどテレビ番組制作のための子会社を4社設立。 |
| 経営の多角化では、ホテル事業、不動産事業に乗り出して、テレビ時代への対応を図った。 |
| 1964年、東映は東急グループから離脱。 |
| 当時は東急本体の経営を五島慶太から引き継いだ五島昇との確執によるものと噂された。 |
| この結果、大川は名実共に東映グループのオーナーとして経営に当たる事となった。 |
| 経営には次期社長候補として息子の大川毅も加わり、ボウリング事業等に関わる。 |
| 1965年NETテレビの経営を巡り赤尾好夫旺文社社長と対立。 |
| 赤尾が日本経済新聞社の円城寺次郎と結託すると、大川も朝日新聞社の広岡知男と手を握り、同社に東映所有のNETテレビ持株の半分を譲渡。 |
| 東映・朝日陣営対旺文社・日経陣営のNETテレビ経営権争奪戦に発展するが、東映・朝日・旺文社各社共通のメインバンクである住友銀行の斡旋で和解し、同行OBの山内直元を社長に据えることで決着した。 |
| この一件以降NETテレビの事実上の親会社は東映から朝日新聞社に代わり、これが現在の総合局・テレビ朝日およびテレビ朝日ネットワークの形成に繋がる。 |
| 1960年代後半に入るとテレビが一般家庭に急速に普及し、映画産業は一気に斜陽化が進んだが、任侠映画ブームを巻き起こし業界トップの人気を誇った。 |
| 1971年に肝臓を患ったが、病床にあっても経営再建に意欲を燃やし、帳簿と格闘する日々を送っていたという。 |
| 1971年8月17日、肝硬変により死去。 |
| 大川の死後は岡田茂が後継社長に就いた。 |
| 球団経営に熱心だった大川を失ったフライヤーズは、急速にその熱意を失っていき大川の死去2年後の1973年2月、岡田・五島によって日拓ホームに売却された。 |