| 父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。 |
| 母は茶道裏千家の教授。 |
| 1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、母方の実家、尾道の山の手で幼年期を過ごす田山力哉著『新しい映画づくりの旗手たち』(ダヴィッド社、1980年)、P198-213。 |
| 2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳でフィルムに絵を刻んでアニメーションを作った(このとき作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された)。 |
| 15歳のときに、小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。 |
| 16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。 |
| いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。 |
| 高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。 |
| 1955年、上京して慶應義塾大学医学部を受けるも、受験を途中で放棄して「医者になるつもりはありません」「ぼく映画を作るよ」と父に告げ、浪人生活を経て、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。 |
| 在学中から8mmで作品を発表。 |
| 自主製作映画の先駆者として、早くから名前を知られた。 |
| 当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の三人しか日本にいなかったという山田奨治編者『文化としてのテレビ・コマーシャル』(世界思想社、2007年)、P282-293 |
| 最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3~5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた。 |
| 1960年に大学を中退。 |
| 1963年に初の16mm作品『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。 |
| 『尾道』、『中山道』、『食べた人』、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社)P71-73キネマ旬報、2010年5月下旬号、P76-81。 |
| 1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画。 |
| このイベントで上映された『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』をたまたま観ていた電通のプロデューサーに誘われ、1960年代からは草創期のテレビコマーシャル(CM)にCMディレクターとして本格的に関わる『映画100物語日本映画篇1921-1995』(読売新聞社、1995年)P184-185。 |
| 当時まだまだCMは"おトイレタイム"といわれ、電通のプロデューサーと傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。 |
| 実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人だったという。 |
| まだ広告はアートでなかった時代で、電通と大林でスポンサーのところに行くと出入りの写真屋さんの扱いで、こんなことでは未来がないと考えた電通らが、CMに演出家をつけてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える、と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった。 |
| テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどんでき自由に撮らせてもらえた。 |
| 大林にとってCMはスポンサーつきの個人映画、映像実験室ともいえ、非常に楽しいものだったという。 |
| 大林の手がけたCMは、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム |
| チャールズ・ブロンソンのマンダム起用の経緯は、当時の丹頂の社長が、若き大林に仕事を任せるにあたり、大林夫婦を食事に招待したおり、ごく自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物ならわが社の広告を任せていい」と決心したといわれ、トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうして売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させたといわれる馬場啓一『大人の男の作法』(PHP研究所、2006年)P104-106。 |
| また、高沢順子の「お魚になったわたし」、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・ワンサカ娘」、「カルピス」など湯川れい子著『熱狂の仕掛け人』(小学館、2003年)P208、10年間で製作したテレビCMは2000本を越え毎日新聞 2010年10月24日8面、国際CM賞も受賞-->、テレビCMを新しい映像表現として確立したとされる。 |
| 当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMをやるのにその商品を使って茶髪になった。 |
| 「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている。 |
| また、自身も九州電力のCMに出演したことがある。 |
| 同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。 |
| 1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。 |
| 7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた橋口尚文『映画の復讐CINEMACANWAIT』(フィルムアート社、1992年)P186-211。 |
| その影響で映画への道を目指した人材も少なくない『ぴあシネマクラブ日本映画編』(ぴあ)P459『大特撮―日本特撮映画史―』(コロッサス)P150-151、P280-281。 |
| 子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される『大特撮―日本特撮映画史―』P150-151、P280-281。 |
| 1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、先取りはしていたといえよう『別冊映画秘宝VOL.2アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p185。 |
| また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した(この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た)。 |
| 大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社)P71-72。 |
| 他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューというのは画期的であった。 |
| 当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった。 |
| CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時副社長(のち社長、会長)の松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。 |
| 大林は「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のような事をやった。 |
| これが功を奏して名前も売れて話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなった。 |
| 『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている一瀬隆重『ハリウッドで勝て!』(新潮社、2006年)P30-32。 |
| 大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている。 |
| 大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる。 |
| 『HOUSE』が山口百恵主演の『泥だらけの純情』との併映でヒットしたため、ホリプロから打診を受け、二作目『ブラック・ジャック瞳の中の訪問者』を監督。 |
| 本作でブルーリボン賞新人賞受賞。 |
| この映画は興行的には失敗したが、続いて百恵、友和ものの第8作目『ふりむけば愛』(1978年)を監督。 |
| 翌1979年、百・友映画11作目『天使を誘惑』をプロデュース。 |
| 百・友映画が10作を終えたため、それまでの監督の方がゲストのような趣きを改め、作家よりの映画作りを発想し藤田敏八を監督に起用したキネマ旬報、1980年1月下旬号、P68-74。 |
| 1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。 |
| 『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作"として多くの熱狂的な支持を集め、ロケ地巡りのファンを増やした |
| また、大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行ってきたが、特に1970年代~1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される |
| 近年は一時期ほど作品を発表しなくなった一方で、吉永小百合を主演に起用して大作を撮るなど、アイドル映画に留まらない活躍ぶりを見せている。 |
| 大林はストーリーをあくまで原作に忠実に撮影するタイプの監督であると言われ、原作との差異で監督と原作者の軋轢が起こるケースも少なくないなかで、赤川次郎は自らの作品が映画化された際に原作に忠実であったので驚いたと発言している。 |
| また女優を脱がす名人とも言われ、原田貴和子、子ども時代の宮崎あおいなどを演出している。 |