| 母子家庭で育ち、母親が教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験する小学校で江刺から遠野。 |
| 中学で遠野から釜石。 |
| 少年時代からエルヴィス・プレスリーを初めとするアメリカン・ポップスに熱中。 |
| 1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。 |
| また同時にハナ肇とクレイジーキャッツにも傾倒していた(1975年以降のソロ作品にその影響が見られ、その後クレイジーのメンバーとも仕事をしている)。 |
| 幼児の頃から歌を歌うのが好きな子供だった。 |
| 小学生時代はラジオから流れる落語や演芸番組に熱中。 |
| また漫画にも熱中し、漫画家になろうとも思っていた。 |
| 自宅にはテレビがなかったため、土日は母親の宿直に同行して学校に行き、校長室でテレビを見ていた。 |
| 1960年にテレビで初めて観た「クレイジーキャッツ」の宝塚でのライブに衝撃を受ける。 |
| 小学6年の時にラジオクラブに入り、鉱石ラジオを作る。 |
| また野球部にも入っていたが、1962年に中学2年で釜石市に引越して野球はやめ、米軍極東放送(FEN)のアメリカン・ポップスに熱中。 |
| 当時は日本の製鉄業の最盛期にあたり、釜石市は富士製鐵株式會社釜石製鐵所(後の新日本製鐵釜石製鐵所)の街として非常に栄えていたため、レコード屋も多く、レコード収集にはもってこいだった。 |
| 同じ1962年に、再発されたエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」をラジオで聞いたことをきっかけに、1年半かけてプレスリーのレコードをすべて集める。 |
| またプレスリーのレコードの作曲家リストを作ったことがきっかけとなり、それ以降、音楽は必ず作曲家の名前に注意して聴くようになった。 |
| 1964年にビートルズの日本盤が発売されると、大瀧はビートルズのアルバムを買うようになり、プレスリーはプレスリー好きの友達に買ってもらって聞くようになった。 |
| レコード屋に入り浸り、レコード屋の店員より音楽に詳しいことから助言をしていた。 |
| そのおかげで買えないレコードも全部聴けていた。 |
| 花巻の高校に入学し、下宿で一人暮らしをするが、授業料を全部レコードにつぎ込んでいたため、1年で退学させられ、釜石の高校に再入学。 |
| ビートルズを始めとする、リバプール・サウンド全般を買いまくっており、後に知り合うピーター・バラカンよりもコンプリートに集めていたという。 |
| 高校卒業後の1967年春に上京し、船橋の製鉄会社でサラリーマンをしていたが、午後に出社したりと散々な勤務成績で、わずか3ヶ月の在籍期間の後、退社。 |
| 一方で会社の宴会でビートルズの「ガール」を歌ったところ好評で、上司に「キミはこんな所にいてはいけない」とプロになる事を暗に薦められたというエピソードもある。 |
| 翌1968年には早稲田大学に入学。 |
| 友人の布谷文夫が所属していた「タブー」というバンドや、竹田和夫率いるバンドブルース・クリエイションに参加している(正式なメンバーではなくライブに飛び入り参加する程度だった)。 |
| 同時期に細野晴臣とも知り合い、共通の友人であり中田喜直の甥である中田佳彦と3人で「ランプ・ポスト」という私的な音楽研究会を開く。 |
| 1969年、エイプリル・フール解散直後の細野と松本隆によって計画されていたバンドに加入。 |
| 松本が作詞した「12月の雨の日」を大瀧が作曲する際、そのあまりに異常なコード進行に細野が、ギターは鈴木茂がいいと決定。 |
| バンド名をヴァレンタイン・ブルーとし、細野、松本、大瀧、鈴木の4人で活動開始。 |
| 1970年にはバンド名をはっぴいえんどと改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。 |
| アルバム『風街ろまん』『HAPPYEND』を発表するも、1972年末をもって解散。 |
| プレイヤー志向の全くなかった大瀧にとって、はっぴいえんどでの経験はその後の活動に大きな影響を与えており、後に「あのおっさん(小坂忠)が「ヘアー」に行ってなきゃ、あんなこと(はっぴいえんど)やってない。 |
| 」、「(はっぴいえんどに入っていなければ)何をやっていたか分からない。 |
| 」とはっぴいえんどなくしてミュージシャンとしての自分は無かったという趣旨の発言をしている。 |
| また、はっぴいえんどの「日本語でロックをやる」という考えにも、当初は猛反対していたが、押し切られたという。 |