| 四股名は故郷大坂に錦を飾れと大錦に決まったが、すでに大坂相撲にも大錦がいるのを知っていてつけたというから、大坂の大錦にとって気持ちのいいものではなかったに違いない。 |
| 大正4年(1915年)1月場所、新入幕で千秋楽に前頭2枚目大蛇潟に敗れただけの8勝1敗1休で優勝旗手、これは当時相手が休めば自分も休みとされたことによるものであり、現在なら不戦勝だから恐るべき成績である。 |
| 翌場所小結で9勝1敗で連続旗手となった。 |
| 横綱の太刀山との9日目(当時は10日制である)の全勝対決で敗れたため優勝掲額はできなかったが関脇を飛び越して大関になった。 |
| そして大関3場所目の大正6年1月場所千秋楽、全勝同士で太刀山と対戦、太刀山の化粧立ちに乗じて速攻で寄り切り初の優勝(相当の成績)を獲得するとともに、場所後の横綱免許を決定付けた。 |
| 太刀山にとってはこれが最後の取り組みとなり、時代交代を象徴する一番である。 |
| 入幕からわずか5場所での横綱昇進は当時の記録であり、現行の制度上これからも破られる事はないだろう。 |
| 横綱になってからも持ち前の速攻で兄弟弟子の栃木山とともに一時代を築いた。 |
| 大正10年(1921年)5月場所7日目、前頭筆頭三杉磯との取組で所要時間2時間5分という前代未聞の取組が行われた。 |
| まず、仕切り直しが度々あり、これで1時間近くも経過。 |
| さらに、取組で大錦が強引に吊ろうとした時、行司初代木村朝之助が廻しが伸びたのを見て本来継続すべきところで突然相撲を止めた。 |
| これを見た大関常ノ花が引分だと叫んだところ、三杉磯は廻しを締めなおし、両者土俵を降りる。 |
| ところが取組を再開するにも、廻しの締まり具合が違う上行司もどういう組み手だったか忘れる始末。 |
| 勝負検査役はそれぞれの意見を述べ収まりがつかなくなり、館内は怒号だらけ。 |
| これで1時間近く経過。 |
| 問題は解決しないまま三杉磯を説得し取組再開。 |
| その後四つになり検査役は水入りを指示。 |
| 行司はこれを廻し待ったと勘違いし、三杉磯はこれで引分と思い土俵を降りる。 |
| 大錦が訳が分からないまま土俵に立っていたところに、検査役は引分を伝え取組終了。 |
| 水入りが全く行われず引分という珍事になった。 |
| 三杉磯は腫れ物の悪化で翌日から休場。 |
| 大錦はこの1分が響き、この場所大錦は負け無しの9勝1分なのに半星差で常ノ花が優勝するという事態になった。 |
| まさしく行司の空前の大失態で大問題に発展した(18代木村庄之助参照)。 |
| 大正11年(1922年)5月場所でも優勝したが、その翌場所の番付に名前を残しながら親方にもならずに廃業してしまう。 |
| 三河島事件の調停にあたりながら内部で解決できなかったことに対して、当時力士の頂点に立つ者として責任を感じて自ら髷を落としてしまったのだ。 |
| 手打ちの式の最中に抜け出したと思いきや髷を落として現れた大錦の姿に座の一同は驚嘆したといわれる。 |
| まだ衰えたわけではなく、現役を続けていればまだ優勝回数は稼げたと思われたが、前々から力士を辞めても親方になる意思はなかったことも関係して、周囲が引き止めることはできなかった。 |
| 幕内在位17場所、119勝16敗3分32休、勝率.881。 |
| この勝率は歴代第8位、明治以降では初代梅ヶ谷、常陸山についで第3位となる。 |
| 優勝は5回、全勝2回、3連覇が1回ある。 |
| 取り口は左を差して一気に寄るか吊り出すという速攻相撲で、特に腹に乗せて吊るのが非常にうまく、119勝中の47番を吊り出しで決めている。 |
| 稽古場ではあまり強くなかったとされており、同門の大関對馬洋や関脇両國勇治郎にも分がよくなかったという。 |
| それにも関わらず、本場所で太刀山、栃木山を上回る勝率を残せたのは、相手方に強敵が少なかったこともあるが、それ以上に研究と工夫によって、相手が力を出す前に勝負をつける相撲を極めた結果と言えるだろう。 |
| そこから「一番相撲の名人」と称され、近代相撲の先駆者とされている。 |
| 非常に真面目な性格で稽古熱心、酒も女遊びもせず、年寄の権威や情の入った相撲などに批判的で、その辺りも角界を離れてしまった理由だといわれている。 |
| 引退後は都内築地で旅館を経営しながら早稲田大学政治経済学部に入学し、卒業後は報知新聞で現在で言うところの相撲評論家として活躍した。 |