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中大兄皇子
『中大兄皇子伝〈下〉』 (黒岩 重吾) 詳細/レビュー クリップ( 0 人) リスト管理/履歴 中大兄皇子伝〈下〉 ⇒ Amazonで詳細を見る 装... |
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天武天皇
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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皇極天皇
日本の第35代天皇(在位:皇極天皇元年1月15日(642年2月19日)-4年6月14日(645年7月12日))。重祚して第37代斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位... |
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推古天皇
第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)-推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。日本初の女帝であると同時に、東ア... |
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天智天皇
同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号で... |
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蘇我入鹿
飛鳥時代の政治家。大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。 |
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有間皇子
孝徳天皇の皇子。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。天智天皇の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹とは母方の従兄妹になる。後世には「有馬」と表記される例... |
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敏達天皇
親
第30代天皇(在位:敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)-同14年8月15日(585年9月14日))。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと、『... |
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間人皇女
間人皇女(はしひとのひめみこ、生年不詳-天智天皇4年2月25日(665年3月16日))は飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。父は舒明天皇、母は皇極天... |
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舒明天皇
日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日)-舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。諱は田村(たむら)。和風諡号は息長足日広額天皇(... |
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中臣鎌足
あなたの建設的で生産的な意見が好きです。退廃的な意見は嫌いです。 サイト : ブログ : 成績 次のグレードまで 回答数 89% 現在/達成条件
630/70... |
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用明天皇
第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)-用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。 |
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蘇我蝦夷
飛鳥時代の政治家、貴族。大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。 |
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蘇我倉山田石川麻呂
先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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茅渟王
親
6世紀後半から7世紀にかけての日本の皇族(王族)。押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の王子で、母は漢王の妹・大俣王(おおまたのみこ)。舒明天皇の異母... |
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持統天皇
日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日... |
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藤原鎌足
飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀... |
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欽明天皇
母
第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)-欽明天皇32年(571年)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめ... |
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プロフィール
孝徳天皇(こうとくてんのう、 推古天皇4年(596年)-白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)-白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。
生涯
| 皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。 |
| 天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。 |
| 姪・間人皇女を皇后にした。 |
| 阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃として、有間皇子を儲けた。 |
| 他に子女は確認されていない。 |
| 蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。 |
| 『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。 |
| 柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。 |
| 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。 |
| 中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。 |
| 軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 |
| 14日の内に、皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は壇に登って即位した。 |
| 立太子は経ていない。 |
| 皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。 |
| 阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。 |
| 中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。 |
| 僧旻と高向玄理を国博士とした。 |
| 孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。 |
| 『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 |
| この改革を、後世の学者は大化改新と呼ぶ。 |
| この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。 |
| このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。 |
| 孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。 |
| 従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。 |
| 日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。 |
| 多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。 |
| 北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。 |
| 史料に見える城柵と柵戸の初めである。 |
| 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 |
| が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 |
| 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 |
| 臣下の大半が皇太子に随って去った。 |
| 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。 |
| 近年では、軽皇子が中大兄皇子を教唆して「乙巳の変」を引き起こした「黒幕」であるという説を唱える歴史学者もいる。 |
| しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。 |
年譜
| 皇極天皇4年(645年)。 |
| 6月12日-中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害。 |
| 6月13日-蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺する。 |
| 孝徳天皇元年(645年)。 |
| 6月14日-皇極天皇の譲位を受け、即位した。 |
| 中大兄皇子を皇太子とした。 |
| 大化元年(645年)。 |
| 6月19日-史上初めて元号を立て、大化元年とした。 |
| 7月2日-皇后(間人皇女)と2人の妃を立てた。 |
| 7月10日-高句麗・百済・新羅の使者が朝貢した。 |
| 任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。 |
| 7月14日-尾張国と美濃国に神に供える幣を課した。 |
| 8月5日-東国等の国司を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。 |
| 朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。 |
| 良民と奴婢の子の別を定めた。 |
| 8月8日-仏教の援助を約し、僧旻ら10人の僧を選び十師とした。 |
| 9月1日-使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。 |
| 9月3日-古人皇子が謀反を企んだ。 |
| 9月12日-中大兄が古人皇子を討った(11月30日、11月とも)。 |
| 9月19日-土地の貸借を禁止した。 |
| 12月9日-都を難波長柄豊碕に遷した。 |
| 大化2年(646年)。 |
| 1月1日-改新之詔を宣した。 |
| 1月-子代離宮に行った。 |
| 諸国に兵庫を修営らせた。 |
| 2月15日-民の投書を受けるための櫃を設けた。 |
| 2月22日-子代離宮から帰った。 |
| 高句麗・百済・任那・新羅の使が調賦を貢いだ。 |
| 3月2日-東国の国司に訓戒する詔を発した。 |
| 3月19日-東国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。 |
| 3月20日-中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた。 |
| 3月22日-王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した。 |
| 上京の途上での馬の飼育請負を登録させ、不正を禁じた。 |
| 市司と要路の渡守に田地を与え、渡し賃の徴収をやめさせた。 |
| 8月14日-品部を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。 |
| 9月-高向玄理を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。 |
| 大化3年(647年)。 |
| 1月26日-高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。 |
| 4月26日-皇子・群臣・百姓に対して庸調を与える旨を詔した。 |
| 荒田井比羅夫が誤って溝を掘って難波に引き、工事がやり直しになったことを諌める者があったので、即日に中止した。 |
| 10月11日-有馬温湯に行った。 |
| 新羅が金春秋(後の武烈王)を遣わして高向玄理らを送った。 |
| 渟足柵を造り、柵戸を置いた。 |
| 大化4年(648年)。 |
| 磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置いた。 |
| 3月17日-阿倍倉梯麻呂が死に、天皇は朱雀門に出て哀哭し、嘆いた。 |
| 3月24日-蘇我日向が皇太子に蘇我倉山田石川麻呂を讒言した。 |
| 4月20日-巨勢徳陀古を左大臣に、大伴長徳を右大臣にした。 |
| 2月9日-穴戸国司の草壁醜経が白い雉を献じた。 |
| 2月15日-白雉を観る儀式を行い、大赦し、白雉と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を3年間免除した。 |
| 10月-宮地にするために墓を壊されたり家を遷されたりした人に物を与え、荒田井比羅夫に宮の堺の標を建てさせた。 |
| 4月15日-僧恵隠を内裏に呼び、無量寿経を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にした。 |
| 7月-難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者5人の内、筏を作って助けを求めた門部金を褒め、その位を進め禄を授けた。 |
| 10月1日-天皇の病を聞き、皇太子が皇祖母尊・皇后・皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。 |
陵墓
| 大阪府南河内郡太子町にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)とされる。 |
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