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プロフィール
- 孝文帝とは
- 生まれ
- 在位前半
- 親政
- 孝文帝の評価
- 后妃
- 子
孝文帝(こうぶんてい、467年-499年)は、北朝北魏の第7代皇帝(在位:471年-499年)。諱は宏。
生まれ
| 孝文帝は第6代皇帝・献文帝の長男に当たる。 |
| 471年、父の献文帝とその養母に当たる馮太后(文明皇后)が対立し、これに敗れて馮太后から譲位を迫られたため、父に代わって即位することとなった。 |
| なお、北魏では外戚の専横を避けるために皇帝の生母が殺されることが常であったため、孝文帝の生母である李氏も、この時に自殺させられており、太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。 |
在位前半
| 馮太后は献文帝の治世時から実権を掌握し、垂簾政治を布いていたが、献文帝を退けて孝文帝を即位させた時は、孝文帝はまだ5歳という幼児であり、引き続いて垂簾を布いた。 |
| これは太后の死まで続く。 |
| 馮太后は政治的な手腕は一流であり、反乱を治め、班禄制や三長制や均田制などの諸改革を実施し、また中央財政(公調)と地方財政(調外)を分離前漢以来、地方で集められた租税は支配戸数に1戸あたりの定額を掛けることで定められた貢納額のみを中央政府に送り、残りは多少に関わらず地方の役所に蓄積・支出されていた。 |
| 調外の設定は地方の州郡が使える制限を設けたもので、財政の中央集権という点では画期的な規定であった(渡邊信一郎『中國古代の財政と國家』(汲古書院、2010年)第9章「北魏の財政構造」(原論文発表2002年))するなど、北魏の中央集権化に務めるなど数々の治績を挙げた。 |
| 馮太后は490年に死去した。 |
| その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。 |
| このことから馮太后は実は孝文帝の実母ではないかと疑う説も出た。 |
親政
| その後、孝文帝による親政が開始された。 |
| 基本的に馮太后の路線を引き継ぎ、中央集権と漢化を目指すものである。 |
| まず、493年には平城(現在の大同)から洛陽への遷都を強行した。 |
| この時に孝文帝は反対のあることを予期して、斉への遠征であるとして洛陽に至った。 |
| そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。 |
| 鮮卑の姓を中国風に改めるように決め、国姓を拓跋から元に改姓し、臣下達に対しても意欲的に中国風の姓を与えた。 |
| 他にも鮮卑語などの鮮卑の習俗の禁止・鮮卑的な官名の排除、鮮卑の中国化(漢化政策)を推し進めた。 |
| 更に漢人の名族の格付けを行ない、同様に鮮卑族の貴族の中でも格付けを行なった。 |
| この中で通婚を行って鮮卑と漢人の融和、鮮卑族の漢人社会に於ける名族としての位置づけを行なった。 |
| さらに九品官人法の部分的な導入により、南朝を模した北朝貴族制を成立させた。 |
| 499年、33歳という若さで崩御した。 |
| 北魏は孝文帝の時代が全盛期と評される。 |
孝文帝の評価
| 孝文帝は馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を推進した。 |
| その結果、北魏はそれまでの遊牧民を中心とした国家体制から、より普遍的な国家体制へと変貌を遂げ、後の隋による中国の再統一への大きな足がかりとなった。 |
| だがその一方で、急激な漢化政策の推進が、支配者層であった鮮卑の不満を引き起こすことにもなった。 |
| 496年には旧都・平城で反乱が勃発し、彼の長男で皇太子であった元恂もこれに参加していた。 |
| 反乱は短期間で鎮圧され、孝文帝は元恂を廃嫡した上で誅殺した。 |
| しかし、この後も不満は消えず、孝文帝の死後に六鎮の乱と北魏の分裂を招くことになる。 |
后妃
| 馮清(廃皇后)。 |
| 馮潤(幽皇后)。 |
| 林皇后(貞皇后)。 |
| 高貴人(高照容)-文昭皇后と追号された。 |
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