| 孫峻の権力を継承した孫綝は呂拠らに帰還命令を出したが、呂拠は孫綝の権力継承に大きく不満を持った。 |
| 太元元年(256年)9月16日、大司馬の呂拠が死去した。 |
| 呂拠・文欽・唐咨は上奏し、衛将軍の滕胤を丞相とするよう推薦したが、孫綝はこれを拒否した。 |
| 同年9月30日、孫綝は滕胤を大司馬に転任させて、呂岱の代わりに武昌に赴かせた。 |
| 呂拠らは軍を戻し、帰還して孫綝を討とうとした。 |
| 孫綝は文欽と唐咨に詔書を送り、呂拠を捕らえさせようとした。 |
| 同年冬10月4日、孫憲(孫慮)・丁奉・施寛らを派遣し、水軍で江都で呂拠を迎え撃たせた。 |
| また、滕胤に対しては将軍の劉丞を送って、歩兵騎兵を率いて攻撃させた。 |
| 同年10月6日、大赦を実行し、年号を太平と改めた。 |
| 呂拠は謀反人となることを恥じて自害し、一族は皆殺しとなった(『三国志』呉志「呂範伝附呂拠伝」)。 |
| 同年11月、孫綝は大将軍に任命され、仮節・永寧侯となった。 |
| 孫憲(孫慮)は将軍の王惇と図り孫綝の暗殺を謀ったが発覚し、王惇は殺害され、孫憲は自殺した。 |
| 同年12月、五官中郎将の刁玄を使者として蜀(蜀漢)に送り、反乱が鎮圧されたことを報告した。 |
| 太平2年(257年)春2月13日、大雨が降り雷が鳴った。 |
| 同年5月、魏の征東将軍の諸葛誕が反乱を起こし、寿春に籠城すると共に将軍の朱成を使者として送って呉への臣従と援軍の派遣を申し出、子の諸葛靚や長吏の呉綱や側近の子弟らを人質に送ってきた。 |
| 同年6月、孫綝は文欽・唐咨・全端らに命じて、歩兵と騎兵3万人を率いて諸葛誕の救援に向かわせた。 |
| 一方で、朱異に命じて虎林より軍勢を率いて夏口を攻撃させると、夏口の督の孫壱は魏へと亡命した。 |
| 同年秋7月、孫綝は自ら軍勢を率いて寿春に赴き、鑊裡の地において夏口から来た朱異と合流した。 |
| 孫綝は朱異を前部督に任命して丁奉と共に介士5万を率いて寿春の包囲陣を攻撃させた。 |
| 鄱陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、廷尉の丁密と歩兵校尉の鄭冑と将軍の鐘離牧がこれを討伐した。 |
| 同年11月、全緒の子での全禕と全儀が母を連れて魏に亡命した。 |
| 同年12月、寿春で孤立していた全端と全懌が司馬昭に降伏した。 |
| 孫亮の時代、外戚の全氏の一族も栄えていたが、有力者の降伏が相次いだため、全氏の一族は衰退していったという(『三国志』呉志「孫亮全夫人伝」)。 |
| 太平3年(258年)春正月、諸葛誕が文欽を殺害した。 |