| 孫綝の一門からは5人の侯が出て、それぞれが近衛兵を率いており、権勢は主君の孫休をも凌いでいた。 |
| 孫綝等に反対する者もいなかったため、ますます増長した。 |
| 孫休は孫綝らが変事を出すことを恐れ、何度も恩賞を与えた。 |
| 永安元年(258年)冬11月5日、孫休は詔を出し、孫綝の皇帝廃立を賞賛し、孫休を皇帝に立てるのに功績があった者の調査を命じた。 |
| 同年11月7日、孫綝の職務の負担を軽減するため、孫恩を侍中に任じて孫綝と事務を分担することを許した。 |
| 同年11月21日、孫休は諸役の軽減と軍役の免除を認めると共に、永昌亭で出迎えた者の官位一級を加増させた。 |
| あるとき、孫休は孫綝からの贈り物を拒絶したことがあった。 |
| 孫綝はこれを恨みに思い、酒席で張布に対して孫休の廃立を口にした。 |
| 張布はこのことを孫休に伝えた『三国志』呉志「孫綝伝」。 |
| 孫休は孫綝がクーデターを計画していると聞くと、張布・丁奉『三国志』呉志「丁奉伝」らと図って対策を練った。 |
| そして、同年12月8日、先祖の祭のために百官と公卿らが集まった場で、孫綝を誅殺し、その日のうちに死刑とし、一族もことごとく滅ぼした。 |
| 孫休は孫峻の墓を暴き棺を削ったり、孫峻・孫綝の一族を孫氏の系図から削って故峻・故綝と呼ばせるようにしたという(『三国志』呉志「孫綝伝」)。 |
| 孫峻・孫綝のために不慮の死を遂げた諸葛恪・滕胤・呂拠らの名誉は回復された『三国志』呉志「孫綝伝」(『三国志』呉志「諸葛恪伝」が引く『江表伝』によると、諸葛恪のために顕彰の碑を建てようとする動きがあったが、孫休は諸葛恪の生前の振る舞いや失策も考慮してそれは許さなかったという)。 |
| 同年12月9日、孫休は詔を出し、左将軍張布の功績を賞して中軍督を加官し、その弟2人も武官に取り立てた。 |
| 皇帝権力を取り戻した孫休は詔により教育を充実させる方針を表明し、五経博士を設置し、現在の官吏である者や部将・官吏の子弟たちの中から、学問を好む者を選抜して五経博士の授業を受けさせた。 |
| 1年毎に試験を受けさせ、成績をランクづけし、それにより官位や恩賞を与えた。 |
| 永安2年(260年)春正月、雷があった。 |
| 同年3月、九卿の官が完備すると、孫休は詔を出し、武より文を重視し、農耕を盛んにするという政策を表明した。 |
| 同年春3月、西陵において赤い烏が出現したという報告があった。 |
| 同年秋、都尉であった厳密の進言を受けて、丹陽郡で干拓事業を行うため、宛陵に浦里塘という堤防を築いた。 |
| この堤防の建築には多くの役人が反対したが、濮陽興の強い勧めがあったという。 |
| しかし莫大な工事費がかかり、多くの兵士が死去、自殺者も出たので、人々はこの工事を怨んだという『三国志』呉志「濮陽興伝」。 |
| 会稽郡において、先帝の会稽王の孫亮が、再び皇帝になるだろうという流言があった。 |
| また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという内部告発があった。 |
| そのため、孫休は孫亮を侯官侯に位を降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺したため、孫休は護送の役人を処刑した。 |
| 一説には孫休による毒殺であったともいう(『呉録』)。 |
| 会稽郡の南部を建安郡とし、宜都郡を分割して建平郡を設置した。 |
| 永安4年(261年)夏5月、大雨が起きて川や谷が溢れた。 |
| 同年秋8月、孫休は光禄大夫の周奕と石偉に命じて国の各地の風俗を調査させて、役人・将軍が清潔な政治を行っているか、民衆が何に苦しんでいるかなどを調べた。 |
| それに基づいて地方の役人の昇進・左遷を命じる詔を下した。 |
| 同年9月、布山から白い龍が出現したとの報告があった。 |
| この年に、安呉の住民である陳焦が死去し、埋葬後6日経ってから生き返るという事件が起きた。 |