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孫和
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孫権
引き継ぐ者
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。...
孫覇
対立
?-250年)は、中国三国時代の人物。呉の皇族(魯王)。字は子威。初代皇帝孫権の子(四男)。二代皇帝孫亮、三代皇帝孫休の兄。子に孫基と孫壱。妻は劉基の娘...
孫登
友達
孫登(そんとう、209年-241年)は三国時代の人物。呉の初代皇帝孫権の長男で呉の皇太子。孫璠、孫英、孫希の父。字は子高。妻は周瑜の娘。
孫休
三国時代の呉の第3代皇帝。呉の初代皇帝である大帝孫権の子(六男)。呉の第2代皇帝孫亮の兄。生母は王氏(孫和の母とは別人)。妻(皇后)は朱拠の娘(生母...
孫皓
三国時代の呉の第4代皇帝。祖父は、初代皇帝孫権。父は孫権の第3子で皇太子に立てられていたが廃された南陽王孫和。子に孫瑾(太子)・孫虔(魯王)・孫充・...
陸遜
後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸...
諸葛恪
諸葛恪(しょかつかく、203年-253年)は中国の三国時代の政治家。呉に仕えた。字は元遜。諸葛瑾の長男で、蜀(蜀漢)の丞相の諸葛亮の甥にあたる。弟に諸葛喬...
孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。
孫峻
中国三国時代の武将・政治家。字は子遠。呉の皇族である孫氏の一族。孫堅の弟の孫静の曾孫。祖父は孫暠、父は孫恭。従弟に孫&32157;。『三国志』呉志に伝があ...
孫堅
中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。
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孫慮
中国・三国時代の人物。字は子智。呉の初代皇帝孫権の子(次男)。妻は潘濬の娘。『三国志』呉志「呉主五子伝」に記録がある。なお、孫綝の従兄に同名の人物...
韋昭
中国三国時代の呉の政治家・儒学者・歴史家。字は弘嗣。雲陽の人。韋隆の父。『三国志』「呉書」では韋曜と記載されている。これについて、裴松之は注の中で...
張休
対立
中国の三国時代の人物。呉に仕えた。字は叔嗣。張昭の子(末子)。張承の弟。『三国志』の「張昭伝」に付伝されている。孫権に仕えた。張休が20歳ごろのとき...
孫亮
三国時代の呉の第2代皇帝。廃立された後は会稽王・候官侯。呉の初代皇帝孫権(大帝)の子(第7男)。第3代皇帝孫休の異母弟。生母は潘氏。皇后は全尚の娘。『...
孫翊
後漢末期の武将。孫堅の三男。兄に孫策、孫権。字は叔弼。子に孫松。
孫匡
中国の後漢末期の人、呉の皇族の一人。孫堅の4男。孫策・孫権・孫翊の弟。字は季佐。孫泰の父、孫秀の祖父、孫倹の曾祖父。孫策の死後、孫権と曹操が同盟を結...
孫朗
呉の皇族の一人、孫堅の庶子。孫権の弟。字は早安。別名では孫仁とも言われる。なお、小説『三国志演義』では「孫仁」は孫権の妹の名前となっている。孫権の...
孫奮
中国・三国時代の人物。字は子揚。呉の初代皇帝孫権の子。母は仲姫。二代皇帝孫亮の兄。『三国志』「呉主五子伝」に記録がある。252年に斉王に封じられ、武昌...
何植
妻
中国の三国時代の呉の武将、政治家。揚州丹陽郡句容の人。『三国志』「孫和何姫伝」等に記録がある。父の何遂は孫権配下の騎兵に過ぎなかったが、孫権が軍営...
陸抗
中国三国時代の武将。陸遜の子(次男)。母は孫策の娘。字は幼節。妻は張承の娘で諸葛恪の姪。子は陸晏・陸景・陸玄・陸機・陸雲・陸耽。『三国志』の呉志「...
プロフィール
孫和とは
若き日
二宮事件
廃嫡と死
死後
評価
孫和(そんか、224年-253年)は、中国三国時代の呉の皇族。初代皇帝
孫権
の三男で、2代皇帝孫亮、3代皇帝
孫休
の異母兄に当たる。字は子孝。母は王夫人(瑯邪)。妻は張承の娘、何姫(
何植
の姉)、女(孫謙の母)。子は4代皇帝
孫皓
、孫徳、孫謙、孫俊。『三国志』呉志「呉主五子伝」に記録がある。
若き日
幼少の頃から母とともに
孫権
の寵愛を受け、14歳のときには孫和のために直属の官僚と兵士が設けられたという。
教育係として中書令の闞沢が付けられ、
書物
や稽古(『呉書』によると、騎馬や弓矢といった武芸)に励んだ。
学問を好み才能のある人物と鄭重に接し名声を得た。
太子である異母兄の
孫登
とも親しく、
孫登
が241年に死去する直前は、遺言書をしたためて孫和を後継者に立てることを願ったという。
翌242年、19歳のとき、
孫権
の後継者に指名されて太子となった。
太子の教育係として闞沢、
薛綜
が付けられ、友人役として蔡潁、張純、封甫、厳維といった人物が付けられた。
鍾離牧
も同年に太子輔義太尉に任命されたという(「
鍾離牧
伝」)。
孫和は現場の役人の上申が
政治の不正
の温床になっているとして、禁止をすることを提言したという。
また、庶子の丁晏が都督の劉宝と争ったとき、それを仲裁し、二人の心を開かせ関係を修復させた。
孫和は人士達が文武の修養を怠り、博奕(すごろく)に夢中になっていることを憂いていることを述べ、その座にいた8人の者にこの説を補強する論を著させた。
そこで、8人の1人の太子中庶子の
韋昭
は『博奕論』を著して博奕(すごろく)を批判した(「
韋昭
伝」)。
これは孫和の腹心の一人である蔡潁が博奕好きであったのを間接的に戒める意味もあった。
二宮事件
孫和が太子となると、皇后として生母の王夫人を立てるべきという意見が広がった。
孫権
は皇后を立てる意思がなかったためにこれを拒絶した。
こうした孫和側の動きに反発したのは、
孫権
の娘で異母姉の全公主(全琮の妻、孫魯班)であった。
全公主の生母である歩夫人は生前には
孫権
に最も寵愛されていたにも関わらず、当時の太子の
孫登
が育ての母の徐夫人を皇后に望んでいたため、とうとう皇后にはなれなかったのである。
全公主は
孫権
が病気になったとき、孫和が妻の叔父である
張休
の屋敷に招かれていたことを利用し、
孫権
に対し孫和は見舞いにも来ずに妻の実家で謀議をめぐらしていると讒言し、また、その母の王夫人も
孫権
が病気であることを喜んでいると讒言した。
まもなく王夫人は憂いのあまり死去し、
孫権
の孫和に対する寵愛も衰えた。
殷基の『通語』によると、
孫権
は243年頃から、孫和の異母弟である
孫覇
を魯王にし、同じ
宮殿
に住まわせ両人をほぼ同等に処遇するようになった。
闞沢は孫和と
孫覇
の両方の教育係を務めた時期があるという(「闞沢伝」)。
この措置に対し批判が向けられると、
孫権
を居住する宮殿を別にし、幕僚を付けさせる措置をとった。
こうして立太子を期待する
孫覇
派と
廃太子
を防ごうとする孫和派の対立を招いた(二宮の変)。
闞沢、
薛綜
が没した後に太子の教育係となった
吾粲
は
孫権
にたびたび諫言をし、
顧雍
の死後に丞相となった
陸遜
もまた、
吾粲
に同調し
孫権
に諫言をし、
孫覇
派の楊竺や全寄の振る舞いを批判した。
張休
の友人である
顧譚
は
孫覇
派の全寄と対立し、後には全寄の父である全琮一族とも対立するようになった。
殷基の『通語』によると、孫和側の重臣として、丞相の
陸遜
、大将軍の
諸葛恪
、太常の
顧譚
、太子太傅の
吾粲
、驃騎将軍の
朱拠
、会稽太守の
滕胤
、大都督の施績(朱績、
朱然
の子)、尚書の丁密の名が挙げられている。
一時は全寄と楊竺の讒言が功を奏し、嫡子と庶子の区別を明確にすべきと主張した
陸遜
が憤死し、
吾粲
、
顧譚
も死罪、
流刑
に追い込まれ、孫和の外戚である
張休
も
流刑
、自殺に追い込まれた。
246年の人事では歩夫人の一族である歩騭が丞相になるなど、魯王派よりの人事がなされたが、太子派の
諸葛恪
や
朱拠
はなお高官にあり、まもなく魯王派の
歩隲
と全琮も死去したため、
孫権
も孫和の廃嫡に踏み切ることはできなかった。
247年、
孫権
が諸葛壱に命令して魏の
諸葛誕
を誘き寄せようと図って待ち伏せの軍を率いて出陣したとき(「呉主伝」が引く江表伝)、孫和は
孫権
を心配して諌めの手紙を送り、
孫権
が無事に帰還すると心の底から安堵したという(『呉主伝』)。
廃嫡と死
250年、孫和は太子を廃された上で幽閉され、
孫覇
は自害を命令され、新たに孫亮が太子に立てられることになった。
『通語』によると、家臣団の分裂を憂えた
孫権
が侍中の
孫峻
と相談した上で行った措置だという。
このとき、丞相代行となっていた
朱拠
や尚書僕射の屈晃、無難督の陳正、五営督の陳象、といった多くの呉の重臣
たちから
孫和の赦免を願ったが、
孫権
はこれを不快に思い、
朱拠
や屈晃は棒叩き100回の刑を受け、陳正、陳象は処刑され一族皆殺しとなった。
のちに
朱拠
は左遷され、任地に着く前に自殺させられた。
屈晃もまた追放され、故郷に移住させられた。
他にもこの処置に反対した者数十人が処刑されたり、放逐された。
この中には孫和の腹心である張純も含まれている(『呉書』)。
孫権
はその後、孫和と
孫覇
の争いの真相が分かるようになると、孫和を赦免しようとしたが、全公主、
孫峻
、
孫弘
に反対され断念した。
252年、南陽王とされた孫和は長沙に幽閉された。
孫権
の死後、呉の実権を握った
諸葛恪
は孫和の正妻の張氏の縁戚であったため、孫和の待遇を改善しようと慰めの言葉をかけた。
また、遷都をするため旧都である武昌の宮殿を整備させた。
諸葛恪
のこれらの行動は孫和の復権の野心とみなされ、
諸葛恪
の誅殺後に実権を握った
孫峻
は孫和から王の印綬を取り上げ、新都に移住させた上で、自殺を命じた。
孫和は正妻の張氏と共に自殺をした。
死後
孫和の子達は
孫皓
の生母である何姫によって養育されていたが、皇帝が孫亮から
孫休
に代わると、新都から呼び出され、長子の
孫皓
が烏程侯として復権した。
孫皓
が呉の皇帝として即位すると、父を文皇帝と諡し、墓の整備や郡の設置、廟の新設など名誉回復のための措置が施された。
孫皓
は父親を大変敬愛していたようで、皇帝になった時に父親を祀る祭りを立て続けに行い、近臣に「度重なる祀りは却って礼を損ないます」と止められるほどだった。
また史官の
韋昭
に孫和の本紀を立てるよう命じたが、
韋昭
はそれを断った(孫和は皇帝ではないので本紀に入る資格はない)。
このことが
韋昭
誅殺の原因であったともいわれる。
孫皓
の他の子も、
孫休
が即位したときに赦免され、孫徳は銭塘侯、孫謙は永安侯、孫俊(張氏の子)は騎都尉となった。
しかし、孫謙と孫俊は
孫皓
の時代にいずれも殺害されている。
評価
陳寿
は「優れた資質を備え、自ら修養に努めたが、非業の死を遂げることとなった。
悲しいことである」と評している。
zh-classical:吳
文帝
。
孫和 - Wikipedia
より要約
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