| この頃、洛陽では董卓が実権を握る。 |
| 永漢元年(189年)、董卓は少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなどの横暴を行った董卓に対し、初平元年(190年)、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。 |
| 孫堅もこれに応じて挙兵した。 |
| 孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過する。 |
| この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日ごろから侮辱的な扱いをしてきた上司、荊州刺史王叡を殺害した『呉録』によると、王叡殺害は、おおむね以下のような背景と流れで行われたとされる。 |
| 王叡は董卓を討つ義兵を起こす前、孫堅が荊州南部で反乱鎮圧を行っていた頃から、彼を武辺者と侮って、言葉による辱めを与えていた。 |
| 王叡は、孫堅と同じく自身の指令系統下部に属する、武陵太守の曹寅と仲が悪く、「董卓よりも先に、まずは曹寅を殺害してやる」と放言していた。 |
| 王叡の言葉に恐れをなした曹寅は、公文書を偽造して、孫堅に対して王叡を討てとの朝廷の命令が下ったかのように計った。 |
| 曹寅が偽造した命令書を受け取った孫堅は、すぐさま兵士を率いて王叡の城を包囲した。 |
| 王叡は、城が孫堅の兵士に囲まれていると知ると、城を囲む兵士の一人に用向きを聞き、物資を必要としていると知ると、兵士たちを城に招き入れてしまう。 |
| 兵が至近に近づいた時に、はじめて孫堅の姿を確認した王叡は、孫堅に対して、兵士たちの監督が行き届いていないと詰る。 |
| 孫堅は王叡の言葉に対して、「朝廷の命によって王叡どのを誅殺しに参ったのだ」と告げる。 |
| 「自分に何の罪があるのだ」と叫ぶ王叡に対し、孫堅は「ご自分が今、どのような状態にあるかわからない事が罪なのだ」と答える。 |
| 王叡は進退窮まり、金を飲み込んで服毒自殺を遂げた。 |
| ;この事件に対する評価。 |
| 『三国志』公孫度伝・注『魏略』によると、228年、魏国朝廷は公孫淵に送った公文書において、孫堅が荊州刺史王叡を殺害した事例を引いて孫呉を非難した。 |
| そのような人間の子である孫権は、恩を仇で返す人間だから信用してはならない。 |
| 公孫淵が背いて呉と同盟するのは愚かな事だ、としている。 |
| 次は南陽郡太守の張咨で、これも自分にとって禍になるとみて、殺害した。 |
| さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、豫州刺史を領させた。 |
| この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅の率いる軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。 |
| 曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れて脱落した後も、孫堅軍は董卓軍に挑み続け、敗れたこともあったが、初平2年(191年)の陽人の戦いで大勝し、董卓配下の華雄の首を挙げるなどの戦果を挙げていった。 |
| 董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅がこれを受け入れないとわかると遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って、長安へ逃れた。 |
| 孫堅は洛陽に入った。 |
| 董卓は陵墓を荒らして宝物を奪い取っていたが、孫堅は陵墓を修復し、暴かれた箇所を塞いでから、再び魯陽の袁術のもとに帰還した『江表伝』によると、孫堅は洛陽復旧の最中、伝国璽を発見したという逸話がある。 |
| 裴松之は「孫堅は忠烈の士であるから、手に入れたなら世間に公表したであろう―(中略)―『江表伝』に有るとおりに孫堅がもしも伝国璽を手に入れていたなら、それは孫氏に伝わっているはずである。 |
| こうした宝物を秘匿してよいはずがない」(よって、そのような事実はなかったのだ)と反論している。 |