| 孫権は、背は高いが胴長短足で、角張った「あご」と大きな口に紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。 |
| また、小説『三国志演義』では碧眼(蒼い目)を持つとも描かれ、「碧眼児」と呼ばれる。 |
| 父の孫堅も「仲謀は只者では無い、貴人の相をしている」と将来を期待したとされる。 |
| ろくに護衛もつけずに叛乱勢力が割拠する地域に駐在したり、虎狩を好むなど、ある種の無邪気さを見せることもあった。 |
| 呉の礎を築いた父の孫堅、勇猛で恐れられた兄の孫策を相次いで亡くし、19歳で孫氏軍閥の当主となる。 |
| 当主となった当初は、山越の反乱が活発になったり、廬江太守の李術が離反したり、弟の孫翊が側近に殺されたり、従兄弟の孫輔が曹操と内通したりと、政情不安定であったが、父や兄から引き継いだ家臣団をまとめあげると共に、積極的な人材登用を行い、政権を充実させた。 |
| 徐州広陵郡を攻めたが、広陵太守の陳登に大敗した。 |
| 『三国志』陳矯伝。 |
| 208年(建安13年)には父の仇である黄祖を討ち取った。 |
| 同年、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。 |
| 豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見を入れて開戦を決断した。 |
| 孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。 |
| 周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより、曹操の水軍を大いに破り、江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。 |
| また、赤壁の戦いの前後に、孫権は10万の兵を率いて、百余日、合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。 |
| 戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合した。 |
| また、孫権は劉備とともに南郡を攻め取り獲得し、劉備の上奏で徐州刺史・行車騎将軍に就任した。 |
| その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。 |
| 孫権と劉備は京城で会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。 |
| 210年(建安15年)、交州刺史の歩騭(ほしつ)を派遣して、士燮(ししょう)を服属させ、呉巨を謀殺した。 |
| 214年(建安19年)、呂蒙・甘寧を率いて曹操領の皖城を降し、廬江太守の朱光と数万人の男女を捕らえた。 |
| 孫権は合肥の戦いなどにあっては攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢であったが、それが過ぎて軽率である場合もあり、命を落としかけたことも幾度かあった。 |
| また張遼の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという。 |
| 劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。 |
| しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。 |
| 業を煮やした孫権は3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙ら軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。 |
| 劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、同盟友好関係が回復した。 |
| 217年、曹操が濡須を攻撃したため、呂蒙を大将に任命して防がせた。 |
| 戦線が膠着すると孫権は曹操に臣従を申し入れたため曹操軍は引き揚げた。 |
| 劉備が益州と荊州の半分を支配して勢力を拡大する中、219年(建安24年)、荊州の守備を任されていた関羽は軍を率いて北上した。 |
| 孫権は同時期に合肥を攻撃していたが、荊州が手薄になった隙をついて曹操の誘いに乗り、呂蒙に荊州を奪わせ、退路を失った関羽を捕らえて処刑した。 |