| 孫和とその正妻の張氏(張承の娘)は自殺し、何氏が孫皓と孫和の遺子の養育に当たった(『三国志』呉志「孫和何姫伝」)。 |
| 第3代皇帝の孫休が即位すると、孫皓は烏程侯に封じられ、任国に赴いた。 |
| 西湖の平民の景養が孫皓の人相を占ったところ、高貴の人物になる相であるという結果を得たため、孫皓は密かに喜んだが、他人に漏らすことはしなかった。 |
| 永安7年(264年)秋7月25日、孫休が死去した(『三国志』呉志「三嗣主伝」)。 |
| 当時の呉は前年に盟友の蜀が魏の侵攻により滅亡し、かつ交阯が魏に離反しているなど厳しい情勢にあり、立派な指導者を必要としていた。 |
| かつて烏程の令であり孫皓とも親しかった左典軍の万彧は孫皓を称賛し「長沙桓王の如く知勇兼備」と評し、孫休の側近であった丞相の濮陽興と左将軍の張布に働きかけた。 |
| 濮陽興と張布は孫皓を皇帝にする旨を朱夫人(孫休の皇后、朱拠の娘)に述べたところ、朱夫人の承諾を得た。 |
| こうして孫皓は23歳で皇帝に即位した。 |
| 元興と改元し、大赦を行った。 |
| 元興元年(264年)8月、上大将軍の施績と大将軍の丁奉を左右の大司馬に任命した。 |
| 張布を驃騎将軍に任命し、侍中を加官した。 |
| その他、多くの人達の位階が進み、恩賞が賜与された。 |
| 9月、太后の朱氏の位を下げて景皇后とし、父の孫和に諡号を与えて文皇帝とした『三国志』呉書何姫伝および同注引『呉録』によると、当初は昭献皇帝と号したという。 |
| 生母の何氏の位を上げて太后とした。 |
| 10月、孫休の4人の子のうち、太子であった孫ワン(雨+單)を豫章王に、その弟らを汝南王、梁王、陳王に封じた。 |
| 妃の滕氏を皇后とした。 |
| 孫皓は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御エンを開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されたこともあるという(『江表伝』)。 |
| やがて粗暴で驕慢な人物となり、かつ小心で猜疑心が強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。 |
| 濮陽興と張布は孫皓を皇帝にしたことを後悔したが、そのことを孫皓に讒言する者があり、11月になって濮陽興と張布は誅殺された。 |
| 12月、孫休を定陵に葬った。 |
| 滕皇后の父の滕牧を高密侯に封じ、母方の叔父の何洪ら3名も列侯に叙せられた。 |
| この年に、魏は交阯太守を任命して交阯郡に派遣した。 |
| 司馬昭が魏の相国となり、呉の降将である徐紹と孫彧を使者として呉に送り、降伏を勧告させた『漢晋春秋』に司馬昭が孫皓に送ったとされる手紙の内容が収録されている。 |
| 甘露元年(265年)3月、孫皓は光禄大夫の紀陟と五宮中郎将の弘璆とを魏への返礼の使者に送り、徐紹と孫彧とに同行させた。 |
| しかし、途中で徐紹が魏を賞讃しているという話を耳にしたので、徐紹を濡須で呼び戻して殺害し、一家眷属を建安に強制移住させた。 |
| 夏4月、蔣陵(孫権の陵)で甘露が降ったとの報告があり、甘露と改元した。 |
| 秋7月、孫皓は景皇后の朱氏を迫害し、死においやった。 |
| 人々は死の場所や葬儀のやり方から朱氏の死が病死でないことを知り、悲しんだという。 |
| また、孫皓は孫休の4人の子を捕らえて呉の小城に閉じ込め、年長の2人を殺害した。 |
| 9月、西陵の督である歩闡の上表により、武昌へ遷都した。 |
| 御史大夫の丁固と右将軍の諸葛靚が建業の守備にあたった。 |
| 魏への使者となった紀陟と弘璆は洛陽に到着したが、ちょうど司馬昭が死去していたところであったので、11月に魏より送り返された。 |
| 孫皓は武昌に至ると、大赦を実行した。 |
| 零陵郡の南部を分割して始安郡を設置し、桂陽郡の南部を分割して始興郡を設置した。 |
| 12月、魏が禅譲により滅亡し、晋が成立した。 |
| 宝鼎元年(266年)正月、司馬昭の弔問のため、大鴻臚の張儼と五官中郎将の丁忠を晋への使者として送った。 |
| 張儼はその帰途で病没した。 |
| 丁忠は晋が防戦の備えを怠っているとして、孫皓に弋陽への侵攻を勧めた。 |
| 孫皓はこの軍事行動について群臣らの評議にかけたところ、鎮西大将軍の陸凱が反対し、車騎将軍の劉簒が賛成した。 |
| 孫皓は内心では劉簒の意見を取り上げたいと思っていたが、躊躇しているうちにそのまま沙汰やみとなった。 |
| 8月、各地で大きい鼎が発見されたという知らせがあり、宝鼎と改元した。 |
| 大赦を実行した。 |
| 陸凱を左丞相に、万彧を右丞相に任命した。 |
| 冬10月、永安の山賊の施但らが数千人の徒党を集めて、孫皓の異母弟である永安侯の孫謙を脅迫して烏程まで進み、孫和の陵にあった楽器や曲蓋を奪い取った。 |
| 施但らが建業にまで至ったときは徒党の数は数万人に膨れ上がっていた。 |
| 丁固と諸葛靚は施但らと牛屯で激しく戦い、施但らを敗走させ、孫謙の身柄を取り戻したが、孫謙は自害した。 |
| 会稽郡を分割して東陽郡を設置した。 |
| 呉郡と丹陽郡とを分割して呉興郡を設置した。 |
| 零陵郡の北部を分割して邵陵郡を設置した。 |
| 12月、孫皓は都を建業に戻し『漢晋春秋』によると、孫皓は「荊州に王者の気があって揚州を圧倒している」という望気者の言葉を信じて武昌に遷都し、施但らの反乱を建業で滅ぼすことにより、この言葉が成就したと吹聴したという。 |
| 荊州にいる間は王者の気を鎮めるためとして、周囲の墳墓・丘陵を荒らしまわったという。 |
| 、衛将軍の滕牧を武昌の守備に置いた。 |
| 宝鼎2年(267年)の春、大赦を実行した。 |
| 右丞相の万彧が長江を遡り巴丘の守備に就いた。 |
| 夏6月、顕明宮『太康三年地記』によると、元々は昭明宮という名称で500丈四方の大きさであり、かつて孫権の建てた太初宮(300丈四方)に比べて大きかった。 |
| 太初宮の東方に位置したという。 |
| 後に司馬昭の名前を避けて顕明宮となったという。 |
| 『江表伝』によると、建設に労力と財力を多く消費したため、陸凱に諌められたが、孫皓は聞き入れなかったという。 |
| 冬12月、孫皓は顕明宮に移ってここに起居した。 |
| 宝鼎3年(268年)春2月、左右の御史大夫であった丁固と孟宗を、それぞれ司空と司徒に任命した。 |
| 秋9月、孫皓は東関に出兵し、丁奉は合肥に軍を進めた。 |
| この年、交州刺史の劉俊と前部督の修則を派遣し交阯に侵攻させたが、晋の将の毛炅らのために敗北し、2人とも戦死した。 |
| 建衡元年(269年)春正月、子の孫瑾を太子に立て、他の2人を淮陽王と東平王を封じた。 |
| 冬10月、建衡と改元し、大赦を行った。 |
| 監軍の虞汜、威南将軍の薛珝、蒼梧太守の陶璜らが荊州より、監軍の李勖、督軍の徐存らが建安から海路で進軍し、合浦で集結し交阯を攻撃しようとした。 |
| 建衡2年(270年)春、万彧が建業に帰還した。 |
| 李勖は建安の道が通行困難となったため、導将の馮斐を殺害し、軍を引き揚げさせた。 |
| 殿中列将の何定が「少府の李勖が馮斐をみだりに殺し、勝手に軍を帰還させた。 |
| 都督の孫秀が出奔し晋に亡命した。 |
| 建衡3年(271年)春正月晦、孫皓が大勢を引き連れて華裡にまで進んだ。 |
| 武昌の督であった范慎を太尉に任命した。 |
| 鳳凰元年(272年)秋8月、西陵の督の步闡を召還しようとしたが、歩闡は命令を聞かず、城を挙げて晋に降伏した。 |
| 愛妾が孫皓にそのことを訴えると、孫皓は激怒し、別のことにかこつけて陳声を捕らえ、焼いた鋸で首を斬りおとし、身体を四望山に捨てさせた。 |
| 鳳凰3年(274年)、会稽郡で章安侯の孫奮が天子になるであろうという妖言が流行った。 |
| 三郡督の何植を送り奚熙を捕らえさせようとしたが、奚熙は兵士を集めて守りを固め、通路を絶った。 |
| 天璽元年(276年)、呉郡から報告があり、臨平湖が通じ、その岸辺で石の函が発見され、その中から皇帝と刻まれた小石が見つかったという報告があった。 |
| そして、司徒の董朝と兼太常の周処が陽羨県に派遣され、国山として封禅を行った。 |
| 天紀元年(277年)夏、夏口の督の孫慎が江夏から汝南に軍を進め、焼討ちをかけて住民を略奪して帰った。 |
| 天紀3年(279年)夏、交州で郭馬が反乱を起こし、その影響は交州・広州の各地に及んだ。 |
| 8月、軍師の張悌を丞相に任命し、牛渚都督の何植を司徒に任命した。 |
| 執金吾の滕循は司空に任命されるところであったが、鎮南将軍・仮節領広州牧に職が改められ、1万の兵士を率いて東の道から郭馬の征伐に向かった。 |
| 滕循が始興で郭馬軍の王族の軍に阻まれた隙に、郭馬はますます勢力を広げたので、徐陵の督の陶濬が7000人を率いて西の道を進み、さらに交州牧の陶璜に対して、その配下の軍勢と合浦、鬱林の諸郡の兵士を率いて、東西の両軍と共に郭馬を討つことを命じた。 |
| 晋軍が迫っている中、孫皓は光禄勲の薛瑩と中書令の胡沖の勧めで晋への降伏を決め、王濬、司馬伷、王渾のそれぞれに降伏の書簡を送った。 |
| 真っ先に建業にたどり着いた王濬を、孫皓は自らを縛って棺を持参して出迎えたが、王濬は縄をほどき棺を焼き捨てて孫皓を本陣に招いて面会した。 |