| 天宝6載(747年)、御史大夫を兼任し、妻の康氏と段氏が国夫人に封じられる。 |
| 配下の劉駱谷を長安へ留めておき、朝廷の動きを全て報告させ、上奏文は代作させていた。 |
| また、多くの献上物をしばしば長安に贈った。 |
| そのため、通過点にあたる州県はその運搬に疲弊するほどでだった。 |
| 玄宗は、勤政楼の祝宴において玉座の東隣に安禄山を特別に座らせたるほどの寵愛ぶりであった。 |
| また、楊貴妃の養子になることを請い、それが実現すると入朝して玄宗より先に楊貴妃に拝礼した。 |
| 理由を問われると、「私は胡人なので、礼は母を先、父を後にします」と答えた。 |
| 玄宗は大いに喜び、楊貴妃の兄弟姉妹(楊銛、楊錡、楊貴妃の3人の姉)に義兄弟となるように命じ、これまた実現している。 |
| 皇太子の李亨が余りの寵愛はかえって驕りを生むだろうと玄宗に忠告するが、聴かれることはなかった。 |
| この頃、安禄山は范陽の北に雄武城を築き、同羅(鉄勒の一部)、契丹、奚の騎馬民族出身の曳落河(胡語で勇士の意味)を集め、軍馬や家畜を集めていた。 |
| また、胡人の商人を各地に派遣して、毎年、大量の品や衣を納付させていた。 |
| 商人たちに引見した時には、生け贄の儀式を行い、女巫に舞わせ、自分を神になぞらえさせていた。 |
| これを知った隴右、朔方、河西、河東節度使の王忠嗣が、何度も「安禄山は必ず謀反するでしょう」と上奏するが、同年、王忠嗣は失脚する。 |
| 天宝7載(748年)には玄宗に武勲を賞する鉄券を与えられる。 |
| 天宝9載(750年)、東平郡王に任じられる。 |
| 奚・契丹に酋長を宴会に呼び、毒酒で酔わせ、数千人を穴埋めとした。 |
| 入朝すると、玄宗は楊国忠や楊貴妃の兄弟姉妹に、途上で迎えさせた。 |
| 天宝10載(751年)、誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を贈られる。 |
| 入朝して楊貴妃の赤子を演じ、おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗を喜ばせ、宮中に自由に出入りするようになる。 |
| 河東節度使を兼任し、長男の安慶宗は郡主と婚姻し、太僕卿に任じられ、その弟の安慶緒は鴻臚卿に任じられた。 |
| これにより、范陽、平盧、河東の3つの節度使を兼ねることとなった。 |
| 部下の劉駱谷を長安にとどめて情報を収集させ、毎月、献上品を都にとどけた。 |
| 同年、兵5,6万を率いて契丹と交戦したが、長雨によって弓矢が濡れて兵士が困窮しているところに、契丹と奚に挟み討たれ、武将の何思徳は捕らえられてほぼ全滅させられた。 |
| 安禄山はその髪飾りを射られ、旗下の20数名と逃亡して穴に落下したが、息子の安慶緒に救われて平盧城まで逃走している。 |
| またこの頃から、宰相の楊国忠が、安禄山が必ず反乱を起こすという上奏を、何度もおこなっている。 |
| 天宝11載(752年)、正月に長安に入朝した時に、高力士が間に入って王忠嗣の後任である哥舒翰と開いた宴の席で、口論となり不仲となる。 |
| 玄宗に朔方節度使の阿布思の援助を求めたが、阿布思は安禄山の襲撃を怖れて、唐に反して、漠北に帰ってしまった。 |
| 天宝12載(753年)、阿布思がウイグルに攻撃され、逃亡したので、その配下の九姓鉄勒を降伏させ、その軍を手にいれた。 |
| 天宝12載(753年)、玄宗は宦官の輔璆琳に調査させたが、彼は賄賂をもらって安禄山の忠誠を盛んに伝えた。 |
| 楊国忠は「安禄山を召してもこないでしょう」と玄宗に告げたが、安禄山は玄宗の招集に応じて上京している。 |
| 玄宗に、楊国忠から迫害されていることを訴え、左僕射・隴右群牧等都使に就任し、吉温を副官として武部侍郎・御史中丞に就任させる。 |
| 天宝14載(755年)、腹心の何千年を都に派遣して漢人の将軍を胡人に変える許可をもらう。 |
| 楊国忠は安禄山の秘密を暴こうと京兆尹・李峴を動かし、長安の安禄山の邸宅を囲ませて家人を捕らえた。 |
| 馬3千頭を献上する名目で6,7千の兵を都に入れようとしたが、達奚珣の反対にあい、玄宗から却下された。 |