| 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。 |
| 法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。 |
| 1939年、都新聞社(後に國民新聞社と合併して東京新聞社、現在の中日新聞社東京本社)に入り、やがて文化部に移る。 |
| 敗戦直後に東京新聞社を退社し、スクリーン・ステージ新聞社に入社する。 |
| 1946年に、『東宝』誌に「小さん・聞書」(4代目柳家小さんの芸談)、『苦楽』誌に聞書「落語鑑賞」(8代目桂文楽の噺、10話)を連載。 |
| 1949年、苦楽社からそれらをまとめて『落語鑑賞』として上梓し、寄席評論家としての評価を確立。 |
| 特に、文楽の独特の話芸を、活字で見事に再現した名人技は、高く評価された。 |
| また、1950年から「三越名人会」を、1953年からは「三越落語会」を主宰。 |
| 「新作派」が人気を博していた戦後期に、「古典落語」の地位を守りぬいて、演芸評論の重鎮となり、「安藤なくして落語界に夜があけぬ」と言われる程の存在となった。 |
| 宮内庁から下町まで幅広い交友関係をもち、各種芸道について造詣が深かった。 |
| 落語・講談等の寄席評論家としては正岡容と双璧をなす(なお、正岡とは犬猿の仲であった)。 |
| その仕事は『安藤鶴夫作品集』(朝日新聞社刊)で現在も見ることができる。 |
| 古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒であり、戦後の落語界に大きな影響を与えた。 |
| 文化庁芸術祭賞実行委員彼が嫌う芸風の芸人に対して、存命中に賞が与えられることはなかったという。 |
| 自殺した湯浅喜久治(『巷談本牧亭』の主役の一人)の遺志を継ぎ、ホール落語会の最高峰である東横落語会を引き継いだ。 |
| 小説も手がけ、1963年、『巷談本牧亭』(こうだんほんもくてい)により、第50回直木賞受賞。 |
| この小説は、劇団前進座によって劇化され、日本のみならず、日中国交回復前の中国・北京でも上演された。 |
| タイ焼きのシッポに餡が入っていたことに感激したエピソードなど物事への感情の入れ方が激しくアンドウツルオならぬ「カンドウスルオ」(感動するお)との異名があり、これについては自著『巷談本牧亭』でも言及している。 |
| また芸人の好き嫌いが激しく、文章上での評価においてもはっきり分かれていた。 |
| 8代目桂文楽と3代目桂三木助のような自分好みの芸人を生涯を通じて最高の言葉をもって礼賛し続ける反面、特定の落語家(2代目三遊亭円歌)が高座に登場すると、客席にいながら露骨にそっぽを向いて「鑑賞拒否」の態度をとった。 |
| これらの事があり、本業の評論はおろか、その生き方に至るまで激しい毀誉褒貶に見舞われた。 |
| 当時から、安藤を強烈に嫌っている人間は芸人・関係者・ファンに至るまで数多く存在した。 |
| この様な人物であるため、安藤に評価されているにもかかわらず、いつその激しい批判の矛先が自分に向けられるかと疑心暗鬼になっていた者も少なくなく、安藤死去の際には、少なからぬ落語・芸能関係者が、表向きでは落語評論で重きをなした人物に追悼の意を表しつつも、内輪の会話では全く逆に「ようやっと死んでくれた」などと安堵の表情を見せたという。 |
| 1980年代には、落語マニア以外からは忘れ去られた存在となっていたが、安藤の影響を大きく受けた世代の一人である小林信彦が、志ん朝について書いた文章等で、「自身に大きな影響を与えた存在」としてとり上げたため、再び注目を浴びた。 |
| なお、その小林は、『日本の喜劇人』の古川緑波についての記述において、間接的に、安藤は評論家としてよりも、エッセイストとして優れていたと書いている。 |
| 他に放送作家の高田文夫は、若い頃に安藤の多大な影響を受けたと語っている。 |
| また、近年のお笑いブームを幅広くフォローしている評論家西条昇も、安藤を高く評価し、同じ評論家としてリスペクトしている。 |
| 四谷にある有名「鯛焼き屋・わかば」を「尻尾まで餡子が入っている」と戦後新聞紙上で書いたところ、大人気になり、今日に至る。 |