| 「コダイグループ」で長年実相寺を支えた鈴木政信は実相寺について、「天才的頭脳の持ち主」とし、人柄としては「照れなのか自分を隠すほうで、本音はなかなか言わず、みんながいると“これやだ”とか言う」と語っている。 |
| 池谷仙克は「非常に多面的な人物で、一個の人格として矛盾も多く、知らない人には誤解されそうで、どうも伝えにくい人」と評している。 |
| 池谷によると、CMの打ち合わせから帰ってきて、平気で「降りた」と言われることもあり、これも「世界観のズレがあったから」という理由からだった。 |
| また反面、親しくなった相手なら、センスが合わなくとも「世界観?そんなのいいや」と依頼を受けてしまう人の良さもあったという。 |
| 上原正三は実相寺の個性の核は満州育ちに起因する「大陸的感性」だとしている。 |
| 実相寺が欧州を愛するのも、数百年来変わらない大陸的風景への憧れだという。 |
| 上原の執筆した『ウルトラセブン』の没脚本『300年間の復讐』(予定監督は野長瀬三摩地)は、沖縄生まれの上原が虐げられた者の視点で描いた内容だが、実相寺は興味を示さなかった。 |
| 人が撮った映画には興味を示さず、「あれはイモよ」で片づけていた。 |
| 寺田農は相米慎二を実相寺に紹介したが、唯一相米とは気が合って、よく一緒に呑んだりしていたという。 |
| 寺田が『でっかく生きろ!』で実相寺と知り合ったのは、久世光彦の紹介からだったが、身なりに拘らない実相寺の格好から、初見の印象は「大道具さん」だったという。 |
| 寺田は後々までこのことで「君は人を見る目が無い。 |
| 大道具さんと間違えて驚いたあの顔は終生忘れないよ」と実相寺にからかわれ続けたと述懐している。 |
| クラシック音楽にも造詣が深く、この分野への実相寺の傾倒ぶりは、早くから演出作品のBGMに反映されていたが、やがて音楽番組『オーケストラがやってきた』の演出、音楽雑誌への寄稿と徐々に仕事の一角を占めるようになり、ついにはオペラ演出にも進出。 |
| 『イドメネオ』『カルメン』『魔笛』と多くの舞台を手がけ、東京藝術大学演奏芸術センター教授として教壇にも立った。 |
| 1980年代には朝比奈隆指揮のベートーヴェン交響曲全集の映像収録を演出したが、これが2009年にDVDボックスとして発売された際は、この種のソフトでは映像監督の名はライナーノートの隅に載る程度が通例であるにもかかわらず、「朝比奈隆指揮 実相寺昭雄監督」と曲名や作曲者名より遥かに大きくボックス全面に大書される扱いとなった。 |
| 寺田農は、「映像に関しては自らの映像世界の構築を役者にまで押しつけたが、こと音楽の仕事に関しては違っていた」と述べている。 |
| 実相寺が撮った最初のドラマ『おかあさん』(1962年)の音楽を担当した冬木透は、録音の時に「テストなしで滅茶苦茶なまんまでいい、下手くそな演奏でいい」と言われたという。 |
| 実相寺は『ステレオ藝術』に連載していた冬木のLP批評を毎月欠かさず読んでいたといい、欧州での仕事の帰りに現地のLPを買ってきて来てくれたりもしたという。 |
| 愛聴する範囲は宗教音楽からオペレッタまで幅広かったが、多くの音楽愛好家の例にもれず最終的にバッハにもっとも強く惹かれるようになった旨エッセイに記している。 |
| また夫人によれば、晩年はショスタスコヴィッチに入れ揚げていたようである。 |
| 妻は女優の原知佐子。 |
| 娘の実相寺吾子も女優。 |
| また、一家の「長男」とされる愛用のアライグマのぬいぐるみちな坊も度々自らの作品に登場させている。 |
| 祖父は海軍大将・台湾総督の長谷川清。 |
| 日露戦争を題材とした東宝映画『日本海大海戦』(1969年、丸山誠治監督)では、撮影小道具として祖父長谷川大将の勲章類を提供。 |
| この奇縁は、同作で特技監督を務めた円谷英二にも驚かれたという。 |
| 仏文科出身ということで、カンヌなどでも通訳なしでフランス語で臨み、ドイツ語にも通じていたが、英語は中学レベルの間違いを連発して友人を呆れさせたことがあるといわれる。 |
| 鉄道ファン、特に路面電車ファンとしても知られ、雑誌「東京人」などにコラムなどを度々執筆。 |
| また書道を独学で会得し、自身が題字を揮毫した漫画作品なども複数存在する。 |
| 以前書道雑誌「墨」にインタビューを受けたこともあり、自らの書道は唐の顔真卿の影響があると述べたこともあった。 |
| 鈴木政信によれば絶対音感だったようで、独学で譜面が読めた。 |
| 速読法も習得していて、本はめくるだけで記憶できた。 |
| 大変な読書量だったという。 |
| けろけろけろっぴのファンで、キャラクターを使用した丼、ふりかけ、預金通帳、眼鏡ケース等を愛用し、家族から「変態ケロッピおやじ」と言われていた『私の大好物』(1992年、文藝春秋(文春文庫ビジュアル版))。 |
| またけろっぴのみならず、興味を持った物は集めずにはいられない収集家で、電車の切符からミニカー、果てはエヴァンゲリオンやアダルトアニメのキャラクターフィギュアまで収集していた。 |
| 達筆で知られ、スタッフが手描きのメモの判読に苦しむことが多々あったが、1992年頃からワープロを使うようになりこの問題が解決した逸話がある。 |
| 友人だった脚本家の石堂淑朗によれば、実相寺は若い頃は酒が飲めない下戸で、コマーシャル撮影で訪れたフランスで当時在住していた岸恵子から貰ったコニャックを石堂に贈るなどしていたが、中年になってからそのコニャックを愛飲するストレート専門の酒豪家になったのだという。 |
| 石堂は「中年からの食習慣の変貌は危険だ」と忠告したが実相寺は是正せず、後年に癌を患って手術する際、「失敗した、胃腸に過信があったね」と嘆いたという。 |
| 盟友の美術監督・池谷を社長とする「株式会社コダイ」を連絡事務所として活動し続けたが、その名刺には”東京市赤坂区・・・”と戦前表記が併記されていた。 |