| 新潟県立新発田高等学校時代に野球部に所属する。 |
| 同時期に少年漫画雑誌『漫画少年』と出会い、漫画投稿を始める。 |
| 卒業後警察に就職するが、電電公社(現:NTT)に転職。 |
| 社会人野球の投手としても活躍し、都市対抗野球大会にも出場した。 |
| その後、井上一雄・福井英一の漫画「バットくん」に刺激され、22歳の時に漫画家になる為上京し、東京都豊島区のトキワ荘に入居する。 |
| 入居当初は、向かいの部屋に手塚治虫が暮らしていた。 |
| トキワ荘に次々と入居してくる漫画家らと『新漫画党』を結成。 |
| 漫画誌に合作、競作を発表するなど、様々な活動をする。 |
| トキワ荘のリーダーのような存在として知られ、後輩である藤子不二雄Ⓐらは家賃を貸してもらった思い出などを語っている。 |
| 一方、生真面目な年下の後輩ばかりの前で、「頼もしい兄貴分」を演じるのは辛かったようで、苦労人で漫画家の棚下照生には、そうした悩みを打ち明けていたという。 |
| 1950年代後半から1960年代前半にかけて人気漫画家となった。 |
| だが、その後の劇画ブームの影響で、刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、一貫して正統派の児童漫画を書き続ける寺田の作風は時流から離れていった。 |
| 寺田の劇画ムーブメントへの憎悪は激しく、仲間内での集まりでも度々劇画の存在を批判していたという。 |
| また、それが昂じて、全く面識のない劇画作家に自分の描いた原稿を送り届け、「あなたはこんな作品を描いていては駄目だ。 |
| 漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。 |
| 最後には、自分が執筆している雑誌の編集長に、そうした漫画の連載を打ち切るように進言したものの聞き入れられず、逆に自分の連載が打ち切られたといった顛末もあった。 |
| これらの出来事が積み重なるうちに段々と寡作になり、1970年代には遂に絶筆してしまう。 |
| この後にトキワ荘時代の仲間に送った手紙の、漫画家時代からは想像もつかない程弱気になった内容に、送られた方も驚いたという。 |
| 1981年には『漫画少年』の歴史を記録した『『漫画少年』史』を編纂している。 |
| 後半生にはトキワ荘の仲間とすら殆ど会わなくなる。 |
| トキワ荘が取り壊される際に手塚治虫をはじめかつてのメンバーが集う企画があったが欠席し、公の接触を拒んできた。 |
| 一方で助けを求める漫画家志望の若者には直接会ってアドバイスをする事もしばしばあった。 |
| 他界する2年前に、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一)を自宅に呼んで宴会をし、終了後、去ってゆく仲間たちにいつまでも手を振り続け「もう思い残すことは無い」と家族に話していたという。 |
| 次の日、藤子Ⓐはお礼をしようと寺田宅に電話をかけたが、寺田は会話を拒否、妻を通じて一切世俗とは関わらないという旨を伝えた。 |
| なお、この宴会の模様は、 |
| 鈴木伸一は、この時に撮影したビデオ映像のコピーを寺田に進呈した。 |
| 遺族の話によると、寺田は、そのビデオを亡くなるまで、繰返し見ていたという。 |
| 晩年は一人離れに住み、母屋に住む家族とも顔を合わせることはなかった。 |
| 妻が食事を日に三度届ける生活を続けていたが、朝食が残っているのをみて、部屋の中に入り、亡くなっているところが発見された。 |
| 週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』に連載された『スポーツマン金太郎』、『背番号0』などの野球漫画は特に有名。 |
| 試合の場面に中継アナウンサーの台詞を入れるようにした嚆矢であるとされる。 |
| 又、不幸な事故で失明、記憶喪失になった柔道家を主人公にした作品『暗闇五段』はテレビドラマ化もされた。 |