| 1993年、巨人とダイエーで競合の末福岡ダイエーホークスを逆指名し、プロ野球ドラフト会議で2位指名され入団。 |
| 年俸は1200万円、契約金は最高額の1億6000万円であった(金額は推定)。 |
| 1994年、キャンプから高畠康真打撃コーチの指導を受けた。 |
| オープン戦はまずまずの成績を残し、開幕戦には6番・右翼手で出場。 |
| しかし、6打数0安打という散々なデビュー戦となる。 |
| その後も振るわず、7月5日の対ロッテ戦で園川一美から34試合、67打席目でようやく初本塁打を放つなど、最終的に打率.215、6本塁打と、不本意なルーキーイヤーとなった。 |
| この現状を打破すべく、オフにハワイで行われる「ハワイ・ウインター・ベースボール」に参加し、首位打者とMVPに輝く。 |
| そして本人が物凄く緊張したという王貞治新監督(この年オフに就任)が現地にかけつけた優勝決定戦で本塁打を放ち、優勝へ導いた。 |
| 1995年、二塁手のレギュラーに定着すると、全試合出場を達成し、福岡ドームで28本塁打を放って本塁打王のタイトルを獲得。 |
| 親友であるオリックスのイチロー(25本塁打)の六冠王を3本差で阻止した。 |
| またリーグ1位の三塁打9本と長打率.548を記録した。 |
| 三塁打と本塁打の両部門でリーグトップとなるのは、1947年の大下弘以来48年ぶり2人目の記録である。 |
| 1995年のオールスターゲームにもファン投票トップで初選出され、第2戦目に古溝克之から広島市民球場のライトスタンドへ本塁打を含む3安打を放った。 |
| シーズンでの打順に関しては、4月は1試合を除く全試合、8番を打っていた。 |
| 初めて4番を任されたのは、5月26日対近鉄戦である。 |
| 1996年、津野浩から、プロ初の満塁本塁打や2年連続の20本塁打以上を記録する。 |
| しかし、不調期間が長く安定感に欠き、打率.247。 |
| チームも3年ぶりに最下位に終わった。 |
| 1997年になると8月末から一塁を、最後の9試合で三塁を守るようになる。 |
| 2年ぶりに全試合に出場、打率.302、36本塁打、114打点の好成績。 |
| ドミンゴ・マルティネス(西武)と熾烈なタイトル争いの中、打点王を獲得。 |
| 二塁打37本、長打率.588、塁打310はそれぞれリーグ1位を記録した。 |
| 野球博物館では、「セの松井秀喜、パの小久保」としてポスターのモデルにもなった。 |
| しかしこの年のオフにプロ野球脱税事件が発覚。 |
| 主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年の有罪判決が言い渡され、また8週間出場停止などの処分を受ける。 |
| 小久保自身はこの年のオールスターゲームファン投票にノミネートされたが、この件について球団・監督が非難された。 |
| 1998年、浜名千広と井口忠仁を二遊間としてレギュラーで固定するため、前年ベストナインであったが二塁を守らなくなる。 |
| 出場停止期間から復帰した5月30日に即4番・三塁手で2安打を放ったが、1ヶ月もたたず右肩関節唇損傷の重傷により離脱し、わずか17試合の出場、本塁打は2本、打率は.225に終わる。 |
| 1999年、痛めた肩に苦しみ、不振だったが王監督に一年を通して4番を任される。 |
| 前半戦は全く打てず、打率.185であった。 |
| しかし9月に入って、4試合で4本塁打を放つなど、後半には3割を超える高打率を記録。 |
| 優勝決定戦では7回裏、日本ハム金村暁から推定飛距離140メートルの同点本塁打を放つなど、ホークスの福岡移転後初のリーグ優勝に貢献した。 |
| 最終的には打率.234、24本塁打、77打点まで巻き返し、本塁打と打点はチーム内トップであった。 |
| 日本シリーズでも中日ドラゴンズ相手に全試合4番・三塁手を任される。 |
| 序盤はヒットすら打てなかったが、第3戦目にようやく初ヒットを打つと、第4戦目のナゴヤドームで前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなどして、日本一に貢献。 |
| 2000年、この年から本格的に三塁手として固定され、また選手会長に任命。 |
| 開幕から6試合で6本塁打と順調な滑り出しを切れば、プロ初の記録も多く達成。 |
| 古傷の親指を痛めながらも、5月には小倉恒からプロ初の逆転サヨナラ本塁打。 |
| 6月20日の対オリックス戦から7月4日の対ロッテ戦にかけての10試合連続打点ベースボールマガジン社『2001ベースボール・レコード・ブック』89頁2000年度主要記録集「小久保が10試合連続打点」より。 |
| 10試合連続以上の打点は小久保で10人目であったや、21試合連続安打などで打率.390を記録し、6月は初の月間MVPを獲得した。 |
| 8月30日の試合後時点で首位西武に3.5ゲーム差をつけられていたが、選手会長として、選手だけを集めてミーティングや決起集会を招集するなどチームが一丸になるよう努めた。 |
| 試合でも、9月は.2975本18打点とチームを引っ張った。 |
| チームは勝ち星を重ね、5日に首位を奪い返す。 |
| そしてマジック1で迎えた10月7日、本拠地最終戦で、オリックス金田政彦から6回裏に0-0からの均衡を破る、決勝本塁打を放った(1-0で勝利)。 |
| 最終的に31本塁打105打点を記録し、松中信彦らと共にチームのリーグ連覇に貢献した。 |
| 4番打者として責任重大と考え、相当な練習量を行った。 |
| しかし、それが空回りとなる。 |
| オーバーワークになってしまい脇腹を痛め、極度の不振、そして途中離脱。 |
| シリーズ敗退の決まった第6戦もスタメンで出られずにチームは敗退し、屈辱を味わう。 |
| それでもオフの契約更改では、シーズン連覇貢献を高く評価し、翌年満30歳にして初めての1億円プレイヤーとなった。 |
| 2001年、321塁打、123打点、そして44本塁打で自身初の40本塁打を記録。 |
| 福岡ドームをホームにしてのホークス選手としては初の大台となった。 |
| この年、松中信彦が36本塁打、城島健司が31本塁打、井口資仁が30本塁打で、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。 |
| 日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初である。 |
| なお小久保は2004年にも巨人で30本カルテットを結成している。 |
| 両リーグでの結成は史上唯一である。 |
| 2002年、背筋痛や肉離れと戦いながら3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つ。 |
| 通算1000本安打を1000試合目で達成するなど活躍したが、チームは2年連続の2位に終わる。 |
| 守備ではオールスターで右翼手を、日米野球で二塁手を守ったりと過去のポジションに就いた。 |
| 10月12日、シーズン最終戦である対近鉄戦(福岡ドーム)で大塚晶則から9回に同点32号本塁打を放ったが、下記の重傷があり、これが自身ダイエーホークス最後の出場及び本塁打となる。 |
| 2003年は選手会長を松中に譲り、打撃に専念しキャンプを消化。 |
| しかし3月6日、西武とのオープン戦でホームにスライディングした際に椎木匠捕手と交錯。 |
| 右膝の前十字靭帯断裂、内側靭帯損傷・外側半月板損傷、脛骨・大腿骨挫傷という重傷を負う。 |
| 自身は1試合も出場できなかったが、チームは3年ぶりのリーグ優勝、4年ぶりの日本一を達成。 |
| 移籍の理由は、当時の球団社長高塚猛と意見が合わなかったことやアメリカでの治療費・渡航費の約2000万が球団から一切支払われなかったことが挙げられ、アメリカから一時帰国した6月に小久保は自由契約の意思を球団側に伝えていた。 |
| また、無償トレードとなったのは、当時のオーナー中内正が、金銭トレードの分を小久保の年俸に上乗せするよう巨人側に伝えたからとされる |