29520
29788
339265
%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9
%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9
%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9
%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9
%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 小弓公方の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
タグはありません
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 小弓公方とは
- 足利義明の登場
- 小弓公方の全盛期と滅亡
- その後
- 歴代公方
- 関連項目
小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏(基氏流)の公方家のひとつ。下総国千葉郡小弓(現在の千葉市中央区生実・同緑区おゆみ野の一帯)に本拠地があったことから、その名がある。 古河公方の分家で本家と覇権を争ったが、 足利義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の 喜連川氏の元となった。
足利義明の登場
| 古河公方家の祖である鎌倉公方家は、足利尊氏の子の足利基氏以来代々関東を支配していたが、次第に本家(足利義詮系統の京都将軍家)の足利氏と将軍位などをめぐって対立する姿勢を見せ始め、遂に第4代公方・足利持氏の時代には第6代将軍・足利義教と武力衝突(永享の乱)するまでに至り、これに敗れた持氏は自害を余儀なくされ、鎌倉公方家は一時滅亡した。 |
| 持氏の遺児の多くも結城合戦などで義教に殺されたが、義教が嘉吉の乱で死去すると鎌倉公方再興の気運が高まり、持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方として復帰する。 |
| 成長した成氏は、幕府や関東管領上杉氏と対立して(享徳の乱)鎌倉を追われたが、1455年には下総国古河城を本拠として独立した勢力を保ち、以後古河公方と呼ばれる。 |
| 成氏の死後、古河公方家では内紛が頻発したが、その内紛のひとつに、第2代公方であった足利政氏と、第3代公方であった足利高基父子による対立があった(永正の乱)。 |
| 高基には、空然という僧侶となっていた弟がいた。 |
| そして上総国に、甲斐武田氏の分家である真里谷武田氏がいた。 |
| この真里谷氏は武田信満の次男・武田信長が古河公方であった足利成氏の家臣となって、その命令を受けて上総に攻め込み、同地で関東管領である上杉氏の所領を横領するなどして戦国大名化した一族である。 |
| そして、この真里谷氏の第5代当主・真里谷信清(恕鑑)には、関東制圧という野望があったが、近隣には古河公方と親密な結城氏、千葉氏の勢力が存在し、真里谷氏はその下風に立たざるを得なくなっていた。 |
| そこで信清は空然に目をつける。 |
| 信清は永正年間の初め頃に空然を還俗させて足利義明と名乗らせ、下総小弓城に迎えて小弓公方として擁立し、信清自身は義明を傀儡として実権を掌握すると共に、義明が足利氏の一族であるという大義名分のもとに勢力を関東一帯に拡大していったのである(義明の小弓入城の年次については永正14年説・15年説と大永2年説がある)。 |
| 真里谷氏は信清の時代に全盛期を迎え、小弓公方は一見、真里谷氏の傀儡政権のような状況になった。 |
| しかし、義明は傀儡の立場で黙っているような人物ではなかった。 |
| また、安房の里見氏や千葉一族である下総の臼井氏、更に常陸国の小田氏が義明の権威を利用しようと接近して軍事力を提供し、反対に真里谷氏の同族である庁南武田氏は真里谷氏の拡大を警戒して古河公方と接近していった。 |
| 義明が持つ「貴種性」が真里谷氏の思惑を越えて広がり、義明自身も里見義通に対する書状で、本佐倉城(千葉氏の本拠)・関宿城(古河公方最大の支城)への野心を示すに至った。 |
小弓公方の全盛期と滅亡
| このような状況で姿を現したのは、伊豆・相模両国を制圧した後北条氏の存在であった。 |
| 後に小弓公方と対決をすることになった同氏であったが、当初は真里谷氏・小弓公方が後北条氏との連携を模索する動きもあり、必ずしも敵対していなかった。 |
| その関係が変わるのは、1524年に後北条氏が江戸城を占領して東京湾(内海・江戸湾)西部沿岸を完全に制圧したことにあった。 |
| 内陸部に拠点を持つ古河公方と違い、東京湾東部沿岸を支配する小弓公方・真里谷氏・里見氏にとって同湾の制海権を掌握しかねない同氏の軍事力に対する警戒感が一気に高まり、彼らは後北条氏との対立を決意する。 |
| 反対に義明排除を図る古河公方と東京湾の海上支配の確立を図る後北条氏の利害が一致することになり、両者が盟約を結ぶきっかけとなった。 |
| 1533年、里見氏の内部で発生した天文の内訌では義明は真里谷信清に命じて小弓派であった里見義豊の支援に当たらせた。 |
| だが、義豊は里見義堯に討たれて滅亡してしまう。 |
| そしてこれがきっかけに義明と信清が対立し、その対立に勝利した義明は信清を出家させた上で強制的に隠居させた。 |
| 1534年に信清は死去する。 |
| 死因は病死とも言われているが義明による毒殺説もある。 |
| やがて、真里谷氏内部で真里谷信隆と真里谷信応兄弟による家督争いが起こると、義明は里見義堯を自派に引き入れて信応を支持して信隆を追放するなど、巧みに真里谷氏の争いに介入する。 |
| こうして、義明は傀儡の立場から脱却し、正式な小弓公方として台頭する。 |
| そして同族である古河公方家や後北条氏と対立し、小弓公方家による南関東諸大名の統合を名分として急速に勢力を拡大してゆくこととなった。 |
| しかし、このような小弓公方家の急速な勢力拡大は後北条氏や古河公方家に危機感を抱かせ、両者に同盟を結ばせるに至った。 |
| 義明は古河公方と後北条氏が結びつくのを食い止めるため、1538年に真里谷信応や里見義堯ら房総の諸大名による軍勢を率いて北条氏綱・足利晴氏連合軍との決戦を決意する。 |
| いわゆる第一次国府台合戦である。 |
| 義明は武勇に優れ、自ら陣頭で指揮するなど奮戦し、一時は北条・足利軍を大いに押したが、里見軍は義堯がもともとこの戦いに消極的であったためにあまり協力的ではなく、また真里谷氏内部にも家督争いに介入した義明に対して不快感を抱いていた者もいたため、義明ら房総軍の士気はあまり高くなかった。 |
| そのため、義明らの軍勢はやがて北条軍の反撃を受けて壊滅し、義明自身も討ち死にした。 |
| 義明の戦死後、小弓城は北条氏の支援を受けた千葉氏が奪還したために義明の遺族は里見氏を頼って安房に逃れ、小弓公方は事実上滅亡した。 |
その後
| 小弓公方の滅亡により、北条氏の南関東における覇権確立の基礎が固められた。 |
| また、義明の死去により真里谷氏では再び、信応と信隆による家督争いが起こって家運は急速に衰退し、やがて里見氏に攻められて、北条氏康の家臣として仕えることとなった。 |
| 義明の一族のうち、長女青岳尼は初め鎌倉の太平寺に尼として預けられていたが、里見義堯の嫡男義弘の懇願によりその正室となった。 |
| これによって義明の旧臣もその多くが里見氏に仕える事となった。 |
| 義明の嫡男義純は国府台で父と共に戦死した。 |
| 次男の頼純(頼淳)は父の死後、里見氏の庇護を受けて成長する。 |
| その後、しばらくは諸国を流浪するが、やがて娘が天下人である豊臣秀吉の側室となった。 |
| 小田原の役が始まると、頼純は里見氏の支援を受けて千葉氏を破って小弓城を取り戻して数ヶ月間ながら小弓公方を復活させた(豊臣氏家臣山中長俊から増田長盛にあてた関東処分に関する報告書においても頼純が小弓に滞在している事を示唆している)。 |
| 北条氏の滅亡後、頼純の長男国朝も秀吉の計らいにより足利氏姫(最後の古河公方である足利義氏の娘)と結婚を許されて、義明の系統は喜連川氏として存続することになった。 |
| 江戸時代においても、かつて将軍家であった足利氏の伝統を重んじた徳川家康は、石高4500石の喜連川頼氏に10万石の家格を与え、喜連川藩として存続させた。 |
| 実際は1万石にも満たないが、特別に認められた異例の藩となった。 |
|
1455年
|
下総国古河城を本拠として独立した勢力を保ち... |
|
1524年
|
後北条氏が江戸城を占領して東京湾(内海・江... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
足利義明
足利義明(あしかがよしあき)は室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。 |
|
|
古河公方
対立
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方足利成氏が、享徳の乱の際に鎌倉... |
|
|
足利高基
戦国時代の武将。3代目古河公方(在位:1512年-1535年)。足利政氏の長男。 |
|
|
北条氏綱
戦国時代の武将、相模の戦国大名。なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)頃である。父の北条早雲は生涯... |
|
|
足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
|
|
喜連川氏
喜連川氏(きつれがわうじ)は足利氏の後裔。足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とする。その鎌倉公方(1455年(康正元年)に古河... |
|
|
足利基氏
南北朝時代の武将。初代鎌倉公方。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男。母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。 |
|
|
足利政氏
戦国時代の武将。2代目古河公方(在位:1489年-1512年)。父は足利成氏。母は簗田直助の娘(伝心院)。 |
|
|
足利持氏
足利持氏(あしかがもちうじ)は室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在位:1409年-1439年)。足利満兼の子。 |
|
|
里見義堯
戦国時代の武将、安房の戦国大名。里見氏の当主。父は里見実堯、母は佐久間盛氏(正木通綱の同族で、三浦・正木とも称したという)の娘。正室は土岐為頼の娘... |
|
|
足利義教
室町時代中期の室町幕府第6代将軍(在職:1428年-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義円、還俗直... |
|
|
足利義氏
« 足利 義氏 (あしかが よしうじ) | メイン | 足利 頼氏 (あしかが よりうじ) » 足利 やす氏 (あしかが やすうじ) (1216~70)鎌倉時代の武将。建保4... |
|
|
足利国朝
戦国時代、安土桃山時代の武将。足利氏の一門。小弓公方・足利義明の次男・足利頼純(喜連川頼純)の嫡男。母は佐野晴綱の娘。喜連川藩初代藩主・喜連川頼氏... |
|
|
足利義詮
南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。 |
|
|
佐藤博信
氏名 佐藤 博信(さとう ひろのぶ) 生年月日 昭和6年(1931年)4月28日生まれ 剣道段位 範士八段 職業 鹿島神武殿専務理事 剣道歴 全日本... |
|
|
足利成氏
室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年-1455年)、初代古河公方(1455年-1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就... |
|
|
正木氏
三億六千六百万円以上だったことが六日、衆院内閣委員会の質疑で明らかになった。 質問に立った細野豪志氏(民主)によると、元厚生省(現厚生労働省)官僚だ... |
|
|
里見義弘
里見義弘(さとみよしひろ)は安房国の戦国大名。里見氏の当主。 |
|
|
里見義通
戦国時代初期の里見氏当主。弟に実堯、子には義豊がいる。民部少輔。天昭院商山正皓居士。従来の説では、第2代当主であった成義の嫡男で里見氏第3代当主にな... |
|
|
酒井氏
三河国の在地領主である。また、その末裔は徳川政権下で譜代大名となった。 |
|
|
小弓公方さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|