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プロフィール
- 小林秀雄とは
- 略年譜
- 特徴
- 戦争についての言及
- 系譜
- 主な著作
- 主な翻訳
- DVD・CD
- 関連サイト
小林秀雄(こばやしひでお、1902年(明治35年)4月11日-1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家。日本の近代批評の確立者であり、 西田幾多郎と並んで戦前の日本の知性を代表する巨人であり、戦後も保守文化人の代表者であった。いわゆるフランス象徴派の詩人、ドストエフスキー、 志賀直哉らの文学、 ベルクソンや アランの思想に大きな影響を受ける。 本居宣長の著作など近代以前の日本文学にも深い造詣と鑑識眼を持っていた。妹の 高見沢潤子は作家・随筆家で、その夫は『 の ...
略年譜
| 1902年(明治35年)。 |
| 4月11日-東京市神田区(現東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。 |
| 本籍地は兵庫県出石郡出石町鉄砲町。 |
| 父豊造はベルギーでダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった。 |
| また日本で最初の、蓄音機用のルビー針を作るなど数多くの技術を開発している。 |
| 高見沢潤子の回想録『兄小林秀雄』新潮社。 |
| 1915年(大正4年)。 |
| 3月-白金尋常小学校を卒業。 |
| 4月-東京府立第一中学校入学。 |
| 一期上には富永太郎、蔵原惟人らが在学していた。 |
| 1920年(大正9年)。 |
| 3月-府立一中卒業。 |
| 第一高等学校受験、不合格。 |
| 1921年(大正10年)。 |
| 3月-父豊造没。 |
| 4月-第一高等学校文科丙類入学。 |
| 1925年(大正14年)。 |
| 4月-東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。 |
| 同級生に今日出海、中島健蔵、三好達治らがいた。 |
| 同月富永太郎を通じて中原中也と識る。 |
| 11月-長谷川泰子と同棲。 |
| 1928年(昭和3年)。 |
| 3月-東京帝国大学卒業。 |
| 5月-単身家を出て大阪に行く。 |
| 後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。 |
| 長谷川泰子との同棲関係は解消。 |
| 1929年(昭和4年)。 |
| 9月-『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論論二席入選作として発表された。 |
| なお1位は宮本顕治『「敗北」の文学』であった。 |
| 「編集部員は箕輪錬一(立教出)、鈴木一意(早大出)、水島治男(早大出)、佐藤績(早大出)、上林曉(東大出)と私の六人で、鈴木を除けば、みな学校を出て間のない若手だった。 |
| 私が一番新参であった。 |
| 数百篇集った中から最後に二編残った。 |
| 宮本顕治の『敗北の文学』と小林の『様々な(ママ)意匠』である。 |
| 一等一篇金千円、二等一篇金五百円という規定だったが、どちらを一等にすべきか編集部は迷った。 |
| いろいろ議論したがケリがつかないので投票ということになった。 |
| 結果は三対三。 |
| そこで又迷った。 |
| 小林のは新風に違いないが難解であった。 |
| それに反し宮本のは左翼の立場から芥川龍之介を論じたもので、議論は単純明快、言葉に力がこもっていた。 |
| 結局、左翼文学の勢をふるっていた当時の文壇形勢からしても、『敗北の文学』を一等に推すのが至当ということにきまった。 |
| 」(深田久弥「小林秀雄君のこと」、『新訂小林秀雄全集・別巻II』「印象II(第二次小林秀雄全集(新潮社版)月報より)」)。 |
| 1930年(昭和5年)。 |
| 4月-『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。 |
| 1932年(昭和7年)。 |
| 4月-明治大学に文芸科が創設され、講師に就任した。 |
| 1933年(昭和8年)。 |
| 10月-文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊、。 |
| 1935年(昭和10年)。 |
| 1月-『文學界』の編集責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。 |
| 1938年(昭和13年)。 |
| 6月-明治大学教授に昇格。 |
| 1946年(昭和21年)。 |
| 2月-「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」。 |
| 同月『無常といふ事』を創元社より刊行。 |
| 5月-母精子没。 |
| 8月-明治大学教授辞任。 |
| 12月-青山二郎らと「創元」を編集、『モオツアルト』を発表。 |
| 1948年(昭和23年)。 |
| 4月-創元社取締役就任。 |
| 1951年(昭和26年)。 |
| 3月-第一次『小林秀雄全集』により芸術院賞受賞。 |
| 1953年(昭和28年)。 |
| 1月-『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。 |
| 1958年(昭和33年)。 |
| 12月-『近代絵画』により野間文芸賞受賞。 |
| 1959年(昭和34年)。 |
| 12月-芸術院会員となる。 |
| 1961年(昭和36年)。 |
| 1963年(昭和38年)。 |
| 11月-文化功労者として顕彰された。 |
| 1965年(昭和40年)。 |
| 6月-『本居宣長』を「新潮」に連載開始(昭和51年(1976年)まで)。 |
| 1967年(昭和42年)。 |
| 1978年(昭和53年)。 |
| 6月-『本居宣長』により日本文学大賞受賞。 |
| 1983年(昭和58年)。 |
| 3月1日-腎不全のため死去。 |
特徴
| ほとんど大学に顔を現さなかったが、彼のランボオ論を読んだ指導教官の辰野隆や鈴木信太郎は、「これほど優秀なら来る必要なし」と言ったという逸話がある。 |
| 文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も数多く手がけ、ランボー、アラン、サント・ブーヴ等の翻訳も行った。 |
| 三島由紀夫は著書『文章読本』の中で「日本における批評の文章を樹立した」と評価しているが、これは小林を形容するうえでは常套的な表現であると言えよう。 |
| 一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると逆に評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである。 |
戦争についての言及
| 1937年11月、小林は『改造』誌上で『戦争について』と呼ばれるエッセイを発表し、その中で{{要出典範囲|「天皇の臣民としての義務が何よりも優先する」と主張し、日中戦争に反対する人々を強い調子で批判した。 |
| 最初の訪問は1938年3月で、日本軍から文藝春秋の特派員として招聘され、満洲を回った。 |
| 1940年になると小林は、菊池寛らによる文芸銃後運動の一員として、戦争を支援するため川端康成、横光利一ほか52人の小説家とともに日本国内、朝鮮および満洲国を訪問した。 |
系譜
| 1705年(宝永2年)信州上田藩から仙石政明が但馬出石藩に入部し、1871年(明治4年)の廃藩置県まで出石藩は仙石氏が支配した。 |
| 小林秀雄の父豊造は兵庫県出石町の在、資母村東里の農家清水家に生まれ、7代目小林友右衛門、富子夫妻の養嗣子となった。 |
| (清水)。 |
| ┃。 |
| 。 |
主な著作
| 現行の新潮社『小林秀雄全集』(全14巻別巻2)は第4次、旧字・歴史的仮名遣。 |
主な翻訳
| 『小林秀雄全翻訳』(講談社、1981年7月)は新字・歴史的仮名遣にて刊行された。 |
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1937年
|
小林は『改造』誌上で『戦争について』と呼ば... |
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1938年
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小林は戦時中、6回にわたって中国を訪問して... |
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投票数
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つながりの強いひと
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本居宣長
江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたこ... |
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江藤淳(えとうじゅん、1932年(昭和7年)12月25日-1999年(平成11年)7月21日)は日本の文学評論家、文学博士(慶應義塾大学)。戸籍名は江頭淳夫(えがしら... |
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青山二郎
青山二郎(あおやまじろう、1901年(明治34年)6月1日-1979年(昭和54年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。 |
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岡潔
日本の数学者。奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年)。 |
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日本の小説家。宮城県石巻市生まれ、東京府育ち。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』。 |
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日本の文芸評論家、思想家。本名は、柄谷善男(よしお)。兵庫県尼崎市出身。筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむ、と一般に言われるが、本人は、否定。ト... |
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野上彰(のがみあきら、本名:藤本登、1909年2月15日-1967年11月4日)は日本の文学者。 |
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松岡正剛
日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都府出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締... |
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日本の思想家、詩人、評論家、東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。日本の言論界を長年リードし、「戦後最大の思想家」と呼ばれ... |
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文芸評論家、作家。本名、木庭一郎(こば いちろう)。祖父木庭榮は医師。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者、日本芸術院会員。私小説批判で有名。 |
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明治~昭和期の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗忠夫。 |
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加藤周一(かとうしゅういち、1919年(大正8年)9月19日-2008年(平成20年)12月5日)は日本の評論家。医学博士。専門は内科学、血液学。上智大学教授、エー... |
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大岡昇平
日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。 |
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小林秀雄さんについてのひとこと紹介
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