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プロフィール
- 小林繁とは
- 少年時代
- 由良育英高校時代
- 全大丸時代
- 読売ジャイアンツ時代
- 江川事件の渦中に巻き込まれ、阪神タイガースへトレード移籍
- 阪神タイガース時代
- 引退後
- 突然の死
- 野球選手としての特徴・プレースタイル
- 関連サイト
小林繁(こばやししげる、1952年11月14日-2010年1月17日)は、鳥取県東伯郡赤碕町(現:琴浦町)出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。赤碕小学校、赤碕中学校、由良育英高校(現:鳥取中央育英高校)卒業。「江川事件」の渦中に巻き込まれ、読売ジャイアンツから阪神タイガースへトレード移籍。「悲劇のヒーロー」として人気を得た。
少年時代
| 1952年11月14日、鳥取県東伯郡赤碕町に生まれる。 |
| 8歳の時、父親から野球用のグラブを渡され、キャッチボールを日課とするようになった近藤2010、16-19頁。 |
| 小学校時代にソフトボールをプレーし「プロ野球人国記中国編完全版」(ベースボール・マガジン社編)、中学時代は野球部に所属近藤2010、20頁。 |
由良育英高校時代
| 1968年、由良育英高校に入学。 |
| 野球部に入部した。 |
| 当時監督を務めていた牧野紀史は当時の小林について、「特にボールが速かったわけではない。 |
| コントロールは悪くなかったが、抜群に良いという程でもなかった」、「投げるボール自体は大したことはない」,「『どうしても欲しい』と思うようなピッチャーではありませんでした」と語る一方、「印象的だったのは、マウンドで常に小林は冷静だった」、「タテに割れるカーブ小林は小学生の時に軟式野球用のボールでドロップカーブを投げられるようになっていた(近藤2010、18-19頁)。 |
| を織り交ぜて、相手バッターのタイミングを上手く外す。 |
| 投球技術は中学生離れしていました」と評している近藤2010、24頁。 |
| 身体面では並外れたバネが印象に残っているという。 |
| 2年までは1学年上の竹中昭(後に広島東洋カープに入団)がエース投手を務め、小林は投手としての練習を続けながら外野手として試合に出場した。 |
| 牧野は三塁手としての起用も打診したが、小林はこれを断っている近藤2010、25-27頁。 |
| 小林は自分より球威も球速もあるボールを投げる竹中に対抗するため、2年生の時にオーバースローからサイドスローへの転向を図った。 |
| 転向後球威・球速ともに向上し、シュートを習得近藤2010、29-30・32頁。 |
| 3年生の時にはエース投手となり、チームを牽引1970年5月2日付「日本海新聞」は、由良育英高校を「小林投手のワンマンの感じが強い」と評している(近藤2010、31頁)。 |
| チームは春・夏の県大会でともに準優勝した近藤2010、30-37頁。 |
全大丸時代
| 夏の県大会に敗れ進路が定まらない中、関西大学野球部キャプテンの木嶋一黄の誘いを受け、同部のセレクションを受ける。 |
| ここで小林は高評価を得、スポーツ推薦による入学を確実なものにした。 |
| しかし関西大学が突如スポーツ推薦枠を廃止し、入学は立ち消えとなった。 |
| ここで大学卒業後の大丸入社が決まっていた木嶋に再び声をかけられ、同社に入社。 |
| 神戸店に勤務した近藤2010、38-42・45頁。 |
| 小林は当初「ギリギリで入れてもらえた」と感じていたが、実際には小林の実力は高く評価されており、神戸店への配属は練習後の業務が免除されるからであった近藤2010、45-47頁。 |
| これにより、カーブの曲がりもそれまでよりよくなった近藤2010、47-48頁。 |
| 近藤隆夫によると、「タメを深くつくる投球モーションは明らかにアンダースローのそれである。 |
| しかし、ボールを離すまでの腕の軌道サイドスロー」であった(近藤2010、47頁)。 |
| 小林のフォームは一般にはサイドスローと表現されることが多いが、小林の物真似をしていた明石屋さんまが「Mr.アンダースロー」というタイトルのレコードを出したように一部ではアンダースローと表現されていた。 |
| (近藤2010、48頁)。 |
| 入社1年目の1971年5月、読売ジャイアンツスカウトの伊藤菊雄は、日本石油との練習試合に登板した小林に目をとめた。 |
| 体格に恵まれないからプロ野球選手になるのは無理だと考えていた小林は、都市対抗野球大会の京都予選に向けた練習中に伊藤に引き合わされ、大いに驚いた近藤2010、48-51頁。 |
| 小林は幼いころからのジャイアンツファンだった近藤2010、19頁。 |
| チームは京都予選を勝ち上がることはできなかったが、大会後近鉄バファローズや南海ホークスも小林に注目するようになった近藤2010、55頁。 |
| 小林の宣言を受けて近鉄と南海は1971年のドラフト会議での指名を回避近藤2010、62頁。 |
| これに対し読売ジャイアンツは6位で指名した。 |
| 小林は事前の宣言通り入団を辞退したが、読売側には指名により1年間交渉権を確保し、都市対抗野球大会終了後に入団させる狙いがあった近藤2010、59-63頁。 |
| 翌1972年3月、京都社会人野球春季大会で同大会史上2人目のノーヒットノーランを達成。 |
| 5月の京都市長杯争奪社会人野球大会でも準決勝・決勝で完封するなど順調な仕上がりで6月の都市対抗野球大会京都予選に臨んだ。 |
| チームは3戦全勝の成績で都市対抗野球大会出場を決め、小林は決勝リーグで前年に敗れた日本新薬を1失点に抑えて完投勝ちを収めた近藤2010、64-65頁。 |
| 7月の都市対抗野球大会1回戦(対電電東北)でチームが敗れた後、小林は伊藤菊雄にジャイアンツ入団の意思を伝えた。 |
| 小林にはもう1年全大丸でプレイし、次回のドラフト会議でより上位での指名を狙う選択肢もあったが、ジャイアンツから指名を受けられるという保証はなかったため、ジャイアンツファンの父親に喜んでもらいたいという思いを優先させた近藤2010、66-67頁。 |
| 入団に際し小林は、当時の制限最高額である1000万円の契約金を要求。 |
| 900万の契約金と、1年目に1勝すれば100万円を加えるという条件を勝ちとった近藤2010、67-68頁。 |
読売ジャイアンツ時代
| 入団前はプロの練習にもついていけるのではないかという自信を持っていたが、ジャイアンツの練習は想像以上に厳しく、筋肉痛に耐えながらついて行くのが精一杯であった。 |
| それでも春季キャンプのうち5日間は一軍で行った。 |
| 初めて一軍で練習を行った日、小林は長嶋茂雄や王貞治ら一軍選手が持つ雰囲気に圧倒され、「どんな練習をしたかも覚えていない」ほどの緊張を味わいながら、「ここがプロなんだ、ここが野球で金を稼げる場所なんだ」と感じたという近藤2010、70-73・78頁。 |
| 後に阪神タイガースでチームメイトとなる江本孟紀は小林の肉体を「3本ずつのハリガネを1本の束にしてより上げ、ハガネにし、さらにそのハガネを束にしたような筋肉でつくられていた」と評しているが、小林によるとそれは入団した年の練習で培われたものであった近藤2010、180頁。 |
| 入団1年目、イースタン・リーグで7勝5敗10セーブ、防御率2.43の成績を挙げ優勝投手にもなった近藤2010、76-77頁。 |
| 小林は、9月26日、一軍の試合に初登板。 |
| チームが負けている場面で3回リリーフ登板し好結果を残した近藤2010、77-79頁。 |
| 後、10月11日の阪神タイガース戦に6番手で出場、1イニングを無失点に抑えた。 |
| この試合は巨人のセントラル・リーグ優勝を左右する試合といわれ、日本テレビ系列で放送予定枠を超えて放送されるなど野球ファンの注目を集めており、小林の存在が知られるきっかけとなった近藤2010、79-84頁。 |
| シーズン終了以後、小林は牧野紀史に「どうやらプロでやっていけそうです」と報告している近藤2010、85頁。 |
| 翌1974年1月、小林は交際していた大丸時代の元同僚の女性と結婚した後に離婚近藤2010、123-124頁。 |
| 小林は入団と同時に結婚するつもりでいたが、監督の川上哲治から一年間結婚を遅らせて野球に打ち込むよう諭され、結婚を延期していた近藤2010、76頁。 |
| 1975年、川上に代わって長嶋茂雄が監督に就任した巨人は球団創設以来初めてセ・リーグ最下位となった。 |
| シーズン終了後、小林は投手コーチ杉下茂に反発して引退を決意し、プロゴルファー転向を考えたことがある。 |
| 多摩川グラウンドで行われた秋季練習において気を抜いた素振りを見せた小林は杉下の怒りを買い、雨中を3時間にわたりランニングさせられた。 |
| これに反発した小林は二軍コーチの宮田征典に電話をかけて引退する旨を伝え、ゴルフクラブを購入するなど練習を休んでプロゴルファー転向の準備を進めた。 |
| しかしチームメイトの高橋良昌から「一度でも死ぬ気になって野球に取り組んだことがあるか?……野球を辞めるなんて言葉を吐くのは、死ぬ気になってやった後にしろ」と諭され、翻意。 |
| 高橋の勧めに従って杉下に謝罪し、練習に復帰した近藤2010、94-100頁。 |
| 翌1976年、張本勲、加藤初らをトレードで獲得するなど戦力補強を行った巨人は、2年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。 |
| 小林は18勝、防御率2.98(いずれもリーグ2位)の成績を挙げ、10月16日の広島東洋カープ戦に救援登板して胴上げ投手となるなど活躍した近藤2010、100-103頁。 |
| 最多勝、最優秀防御率のタイトルはとれなかったものの沢村賞を受賞し、ベストナインに選出された近藤2010、105頁。 |
江川事件の渦中に巻き込まれ、阪神タイガースへトレード移籍
| 1978年、巨人は「入団交渉期間は、ドラフト会議当日から、翌年のドラフト会議前々日(2日前)までとする」日本プロフェッショナル野球協約の盲点を突く形で、前年のドラフト会議でクラウンライターライオンズの指名を受けた江川卓とドラフト会議前日にあたる11月20日に入団契約を取り交わした近藤2010、108・111-112頁。 |
| 江川の地位保全を求める仮処分申請を東京地方裁判所に対し行うと同時に日本野球機構を脱退し新リーグ設立を画策した近藤2010、112-113頁。 |
| 12月21日、日本野球機構コミッショナーの金子鋭は「ドラフト会議は有効」、「タイガースが江川に対する交渉権を有する」とする裁定を下したが、翌12月22日に「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という旨の「強い要望」を表明。 |
| 一連の経緯に世間は反発したが、同時に江川のトレードの相手がどの選手になるかに関心が集まった近藤2010、113-122頁。 |
| トレード期限は1月31日に設定され、新浦寿夫、高田繁、淡口憲治らと共に小林の名も取り上げられた近藤2010、122頁。 |
| チームメイトに合流しようとしたが、球団事務所庶務部長によってハイヤーに乗せられ、ホテルニューオータニへと連行された近藤2010、123-125頁。 |
| 小林は数時間かけて考えた末、トレードに同意し、翌2月1日午前0時に球団事務所で記者会見を開いた近藤2010、129頁。 |
| スポーツライターの近藤隆夫は、なし崩し的にタイガースに入団させられることを警戒していた近藤2010121-122頁。 |
| 江川が午後4時20分にタイガースとの間で入団契約を結んでいることから、この時間帯には小林が移籍に同意していたのだろうと推測している近藤2010、130頁。 |
| 会見後、小林はチームメイトに挨拶をし荷物を取りに行くために宮崎へ行こうとしたが、「君が行けば、また騒ぎになるし、選手たちも精神的動揺をきたすかもしれない」と球団から止められた近藤2010、133頁。 |
| が、小林の中で終結したのは、1987年、江川が現役引退を発表した日に巨人オーナーの正力亨から電話で「キミには苦労をかけてしまった」と謝罪を受けた時だったという。 |
阪神タイガース時代
| 2月10日、小林は大阪市内で記者会見を開き、阪神タイガースへの入団を発表近藤2010、142頁。 |
| 背番号は小林の強い要望により、ジャイアンツ時代と同じ「19」に決まったタイガースではそれまで工藤一彦が背番号19で、小林の移籍に伴い26に変更した(近藤2010、144頁)。 |
| 会見を終えた小林はすぐさまタイガースのキャンプ地である高知県安芸市へ向かった近藤2010、142頁。 |
| 地元のラジオ局は小林の到着を臨時ニュースとして報道し、翌2月11日には「悲劇のヒーロー」を見るために当時の安芸市の人口の半分にあたる1万2000人がキャンプ地の球場に詰めかけた近藤2010、147頁。 |
| 小林は巨人への未練に苛まれながらも「ジャイアンツだけには負けたくない」と思うようになり、巨人戦に合わせて自分のローテーションを組むよう、監督のドン・ブレイザーに直訴。 |
| が、江川との交換要員となったことで「小林を出してでも江川を獲りたい」、「小林よりも江川のほうが戦力になる」と球団側が判断したのだと考え、プライドを大きく傷つけられていた近藤2010、127-128頁。 |
| 6月25日の中日ドラゴンズ戦で、それまで「カモ」にしていた中日ドラゴンズの大島康徳に「自信を持って投げた」インコースのシュートをホームランされる。 |
引退後
| 小林は引退後、1984年からTBSで野球解説者を務め、同局の『JNNスポーツデスク』、『JNNスポーツチャンネル』、『筑紫哲也ニュース23』でスポーツキャスターを務めた。 |
| 1985年に阪神タイガースが日本シリーズを制し日本一になった際には祝勝会を取材中、チームメイトでロッカーが隣だった川藤幸三に「お前はタイガースの一員じゃ」と言われ、ビールをかけられた近藤2010、185頁。 |
| 2000年に梨田昌孝梨田は小林の一学年下で、当時隣県の島根県内にある浜田高校野球部に所属していた(近藤2010、44頁)。 |
| その後、小林は福井県に身を置きつつ、2006年に「東京スポーツ」の専属評論家、2007年に韓国のプロ野球チーム、SKワイバーンズの二軍投手インストラクターに就任した近藤2010、196頁。 |
突然の死
| 同じく3月、鳥取県倉吉市のショッピングモール「パープルタウン」で追悼展『ありがとう小林繁投手』が開催されたこの追悼展では、小林が高校時代に出場した全試合(練習試合を含む)のスコアブックや、父親が作ったスクラップブック、大丸時代に呉服売り場で行われた研修の様子を収めた写真などが展示された(近藤2010、44-45頁)。 |
野球選手としての特徴・プレースタイル
| 小林のピッチングフォームは王貞治の一本足打法を参考に構築されたもので、「カラダを沈みこませるようにして一本足の状態で一度深くタメをつくり、そこからタメの時間を調整して相手打者のタイミングを外すようにして」投げるというものであった近藤2010、157頁。 |
| スナップスロー(手首を使って投げること)を苦手とし、1982年4月3日の横浜大洋ホエールズ戦では打者高木由一を敬遠しようとして投げたボールが三塁側に逸れて暴投となり、サヨナラ負けを喫している。 |
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1952年
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鳥取県東伯郡赤碕町に生まれる |
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1968年
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由良育英高校に入学 |
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つながりの強いひと
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江川卓
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