| 満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれ。 |
| 父小澤開作は歯科医師。 |
| 協和会創設者の一人で、親交のあった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した岡崎久彦『百年の遺産:日本近代外交史73話』産経新聞ニュースサービス、2002年、181頁。 |
| 1941年、小学生のときに満州からの引き揚げを経験。 |
| 東京都立川市を経て、神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)、東京都渋谷区笹塚、神奈川県川崎市幸区を転々として育つ。 |
| 指揮者でチェリストの齋藤秀雄の門下生。 |
| 秋山和慶、山本直純らと共に齋藤の下で厳しい指導を受ける山本直純著『紅いタキシード』(東京書籍)pp40-pp42。 |
| 成城学園中学校から成城学園高校へ進学していたが桐朋女子高校音楽科へ入学。 |
| その後、齋藤が教授を務める桐朋学園大学短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学し同短期大学を卒業小澤征爾著『ボクの音楽武者修行』。 |
| 短大卒業後、スクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏。 |
| 1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。 |
| ヨーロッパのオーケストラに多数客演。 |
| カラヤン指揮者コンクール第1位。 |
| 指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。 |
| 1960年アメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。 |
| 指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。 |
| 1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。 |
| 指揮者のレナード・バーンスタインに師事。 |
| 同年ニューヨークフィルの来日公演に同行。 |
| カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。 |
| 1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始するが、N響は若い小澤の指揮活動に反発を強め、演奏会をボイコットするなどの強硬手段に出た。 |
| 小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任。 |
| 日本では音楽活動をしないと決め、その後渡米。 |
| (後述)NHK交響楽団とは1995年1月に32年ぶりの共演を果たしている。 |
| 1964年シカゴ交響楽団(当時の指揮者はマルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。 |
| 急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督として音楽祭を成功に収めた。 |
| 小澤の名声は全米に知れ渡る。 |
| シカゴ交響楽団とはRCAレーベルに複数の録音を残し、日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮して海外の一流レコード会社からクラシックの曲の録音を海外市場向けに複数発売したことは画期的な出来事であった。 |
| 1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める。 |
| 1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。 |
| 1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。 |
| 同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年まで務めた。 |
| 1972年には、フジサンケイグループによる突然の日本フィルハーモニー交響楽団の解散後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。 |
| 小澤は指揮者として中心的な役割りを果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年9月から桂冠名誉指揮者となっている。 |
| 1973年、38歳のときに、アメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督に就任。 |
| 当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。 |
| その後グスタフ・マーラーの交響曲全集(「大地の歌」を除く)など、フィリップスへの録音を行った。 |
| 日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてであった。 |
| またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。 |
| ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことであった。 |
| タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJIOZAWAHALL”が建設された。 |
| なお、アメリカを本拠にしての音楽活動が長かったため、アメリカ国内及び海外のマスコミでは、小澤征爾を日系アメリカ人Japanese-American)とするケースも見受けられる。 |
| 1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。 |
| このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなる。 |
| 1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功をおさめる。 |
| 1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始。 |
| このオーケストラでもフィリップスへの録音を多く行っており、今までにベートーヴェン、ブラームスの交響曲全集などを完成させている。 |
| 1998年に長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。 |
| 長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン第九を演奏。 |
| 開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。 |
| 2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。 |
| このコンサートは世界中に同時生中継された。 |
| 2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。 |
| 作曲家の武満徹と親交が深く、音楽的、人間的に深い繋がりを築いた。 |
| 武満の死後も演奏会で武満作品を取り上げている。 |
| 小澤と武満との対談は『音楽(新潮文庫1984年)』ほか写真集でも発表されている。 |
| 2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術を受けた。 |
| 2006年1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院しながら静養していた。 |
| 2006年1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇イドメネオの指揮はキャンセルされた。 |
| 2006年2月1日、ウィーン国立歌劇場は今年いっぱいの音楽監督としての活動の一切のキャンセルを発表した。 |
| また所属事務所は、東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディ「オテロ」の公演もキャンセルすると発表した。 |
| 2006年6月、スイス西部モントルー近郊ブロネで開催された「スイス国際音楽アカデミー」にて指揮活動を再開。 |
| また、7月20日には「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演にてマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮し、日本国内での指揮活動を再開した。 |
| 2006年度のサイトウ・キネン・フェスティバル松本も指揮をし、2007年4月にはベルリンフィルを指揮をしている。 |
| 2007年、ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダーの2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。 |
| 2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。 |
| 2008年、世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章した{{citepressrelease。 |
| 2010年1月、人間ドックの検査で食道癌が見つかり治療に専念するために、同年6月までの活動を全てキャンセルすることを発表した{{citenews。 |
| 2010年11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された{{citenews。 |