| 父は広島県鞆の浦生まれ小西得郎『したいざんまい』実業之日本社、1957年、P44、岡山県児島育ち『したいざんまい』、P24、25で京都帝国大学教授を務めたロシア文学者・小西増太郎阿部牧郎『素晴らしきプロ野球』中央公論新社、1994年、P262山口瞳『山口瞳対談集2』論創社、2009年、P237-238。 |
| 小西は自著で「私の祖先は鞆の浦出の小西、それが備前の国は岡山に行って小西行長となったと聞かされた」と述べている。 |
| 母は愛知県知多半島の中須生まれ、半田育ち。 |
| 父親が15、16のとき、志を立てて東京に出てきてその後、得郎が生まれた。 |
| 「私は東京生まれだが、言葉は田舎育ちの両親の影響を受けている」と話している。 |
| 旧制日本中学を経て、東京帝国大学、京都帝国大学にも進める超難関の三高に合格したにもかかわらず進学せず、野球をするためだけに明治大学に進学した。 |
| 第8代キャプテンとして東京六大学リーグで活躍。 |
| 大学卒業後、石川島造船に勤務。 |
| 最初は月島で石炭人夫をさせられた『したいざんまい』、P121、122。 |
| 二、三ヶ月の後、営業部に配属されるが間もなく退職。 |
| 友人と上海で阿片密売をする『したいざんまい』、P127-130。 |
| 軍隊生活の後は阿片はやめ、石川島の営業部時代に鉄道省や電力会社に出入りして接待と商談の場に神楽坂の料亭をよく利用した縁で神楽坂に9年間居つき、32歳で神楽坂の置屋の主人となる阿部牧郎『素晴らしきプロ野球』、P255『したいざんまい』、P130。 |
| 設立資金は先の阿片密売で得た金という阿部牧郎『素晴らしきプロ野球』、P270。 |
| 1927年(昭和2年)から始まった都市対抗野球大会では、置屋の主人として開幕戦の球審を務めた。 |
| 1936年秋、神楽坂時代に面倒をみていた田部武雄の依頼を切っ掛けにプロ野球に関わる『明治大学野球部史〈第1巻〉』、P272『したいざんまい』、P131、132、247。 |
| 田部のパトロンが田部を頭に岐阜県に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団をつくるので監督になって欲しいと依頼される。 |
| このチームの結成話は流れるが、國民新聞が大東京軍を作り、小西はこのチーム二代目監督に就任『したいざんまい』、P130-132。 |
| この時、同社主幹・田中斉と赤嶺昌志が当時、國民新聞の社会部長をしていた鈴木龍二を球団常務(代表)に抜擢『したいざんまい』、P133。 |
| 鈴木はまだ野球のヤの字も知らず、一緒に旅に出たおり、小西が鈴木に野球の手ほどきをした。 |
| 鈴木が國民新聞から独立したい、金があって野球の好きな人をパトロンに付けたいとの依頼を受け、小西が紹介したのが大橋財閥の息子で共同印刷専務の大橋松雄『したいざんまい』、P134-145、248、249鈴木明『昭和20年11月23日のプレイボ-ル』光人社、2001年、P78-100、127-132、150-156、180-185。 |
| 監督は一年半で辞め、その後共同印刷系の職場を転々とするが球団の交渉事には関与し、大橋と妻同志が姉妹だった田村駒治郎との経営参加の要請交渉にも鈴木と同席した。 |
| 1942年シーズン終了後、審判を辞めた明治の後輩・横沢三郎を共同印刷に世話をする桑原稲敏『青バットのポンちゃん大下弘』ライブ出版、1989年、P87、88。 |
| 終戦直後、焼野原の東京新橋駅前でニクロム等を扱う「仙台製作所・東京出張所」を経営関三穂『プロ野球史再発掘4』ベースボール・マガジン社、1987年、P7-16、24-30。 |
| 『青バットのポンちゃん大下弘』、P97-114。 |
| 粋な遊び人の小西は、焼け跡の闇市を牛耳るやくざの親分とも昵懇で、事務所には得体の知れない男たちが寝泊まり、どこからともなく食糧や生活物資などを運んできた『青バットのポンちゃん大下弘』、P97-110。 |
| 警官の追跡を逃れ事務所へ飛び込んで来た闇の世界の大物を、小西がかくまったことで「恩返し」と称して闇物資が届き始めたともいわれる山室寛之『野球と戦争』中央公論新社、2010年、P191。 |
| このためか六代目尾上菊五郎や藤原義江らも顔を見せた。 |
| また、鈴木龍二、鈴木惣太郎、赤嶺昌志、村上実、松浦竹松、富樫興一、小野三千麿や大下弘、飯田徳治、岩本義行ら野球選手、浜崎真二、安藤忍ら満州帰りの野球人が麻雀や闇米目当てで集まって溜まり場となり、戦後のプロ野球再開が話し合われた関三穂『プロ野球史再発掘1』P52-53。 |
| 関三穂『プロ野球史再発掘7』P61。 |
| 1945年の秋、この「仙台製作所」の看板の横に小さく「日本職業野球連盟」という板切れがかかっていた時期があった。 |
| 戦後のプロ野球復興初の開催となった同年秋の東西対抗戦 |
| 後楽園球場や甲子園球場がGHQに接取されている状況で、「とりあえず試合をやってプロ野球復活の狼煙を上げるしかない。 |
| 連絡がつく選手をかき集めて東西対抗戦でもやればいい」という小西のアイデア。 |
| 2チーム分の選手を何とか集めて東西対抗戦をするということで、戦前行われていたオールスターの東西対抗戦とは意味合いが異なる。 |
| 東西対抗戦に駆け付けた選手・関係者の食糧調達は小西の多彩の人脈に助けられたもの。 |
| 1946年、横沢三郎が大下弘らを擁して結成したセネタースのユニフォームを作る生地が調達できないと相談を受け、戦前何度もユニフォームを変えた阪急を紹介、セネタースのユニフォームは阪急のユニフォームを改造したもの。 |
| 同年セネタースの東急への身売り話は、浅岡信夫を通じて小西が関与し『青バットのポンちゃん大下弘』、P159 |
| 大映の永田雅一のプロ野球参入も永田が川口松太郎を通じて小西に依頼し、永田のメインブレイン・大麻唯男を介して赤嶺昌志を永田を繋げたもので、さらに松竹の大谷竹次郎のプロ野球参入も、大谷から依頼を受けた六代目尾上菊五郎が小西に頼んだもの。 |
| 太陽ロビンスとの合併を小西が仲介したという。 |
| また坪内道典のプロ球界復帰も小西の仲介によるもの。 |
| この他「野球時代」という雑誌を始めた関係から新田恭一を引っぱり出し、杉下茂の中日入りも小西が世話をし関三穂『プロ野球史再発掘2』P14-15、86-87。 |
| 、大島信雄は鈴木龍二に頼んで松竹ロビンスさせたという。 |
| 1950年(昭和25年)、監督を予定していた浜崎真二や水原茂に逃げられ、大量補強したチームをまとめるため、やむなく松竹ロビンス監督に就任、その年のセントラル・リーグ初代優勝に導く。 |
| 1952年(昭和27年)~1953年(同28年)には大洋ホエールズ・洋松ロビンスの監督を務めた。 |
| - 日本プロ野球黎明期の偉大な指導者として定評があった。 |
| ※指導者としては偉大な、とまでは言えないのでは? 指導者いうよりフィクサー? --->。 |
| 1955年5月から『したいざんまい』、P177NHKでプロ野球中継の解説者として活躍し、「そりゃーもう、なんと申しましょうか」というおなじみの台詞と、志村正順アナウンサーとの名調子で知られた。 |
| また、1955年(昭和30年)6月7日の後楽園球場での巨人対中日戦で巨人の打者藤尾茂が杉下茂の内角への鋭いシュートを股間に受けた際に(「なんとこともあろうに藤尾のキ…」とうっかり放送禁止用語を喋りそうになって)言葉に詰まった志村アナウンサーを尻目に、「まぁ、なんと申しましょうか…藤尾君の今の痛さばかりはご婦人方には絶対にお分かりになられない痛みでして」の名言でその場をつないだ逸話も有名。 |
| 大和球士とともにテレビ中継草創期の名解説者で、特に実況放送を通じ独自の解説をもって全国のファンを啓発し、野球の隆昌に貢献した |
| 1971年に野球殿堂入り。 |
| 1977年(昭和52年)6月9日死去、享年81。 |