| 1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」後に花の中三トリオを組むことになる桜田淳子も、同年、同じ『スター誕生!』で牧葉ユミの「見知らぬ世界」という曲を歌って合格していた。 |
| を歌い、準優勝百恵はこの時、「発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していた」という。 |
| 山口百恵著『蒼い時』(集英社、1981年)この決戦大会出場時の映像は現存していない。 |
| 、20社から指名を受ける。 |
| 1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。 |
| 森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。 |
| デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。 |
| デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。 |
| これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり、それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。 |
| その後千家・都倉コンビが作った楽曲は45曲に及ぶ。 |
| 年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。 |
| 歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。 |
| 歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。 |
| これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあったCBSソニー(現:「ソニー・ミュージックエンタテインメント」)のプロデューサー・酒井政利は第二弾として「青い果実」を出すときに、作詞家の千家和也に対して「より過激な表現」を求めつつ、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」と自問したものの、「ストレートに表現することも一つの行き方だ」と思い直したという。 |
| 「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューでは大抵「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」と質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通した。 |
| 同曲が大ヒットした1974年には青春映画の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。 |
| この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。 |
| 『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコCMを観た『伊豆の踊子』の監督、西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。 |
| 三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。 |
| 百恵の主演映画13作のうち12作は三浦との共演である。 |
| なお、これらの映画は東宝配給ながらすべて日活撮影所で製作され、監督やカメラマンも西河ら日活出身者が大部分を占めることもあり、往年の日活青春映画、文芸映画の後継的な意味合いも持っている。 |
| 最後の『古都』もやはり日活製作であり、長谷川清カメラマンのみを連れて久々に東宝撮影所の外に出た市川崑監督は、馴染みの薄いスタッフを粘りに粘って叱咤し引退作を撮りあげた。 |
| 映画デビューした1974年10月からはTBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)でも好演、高い人気を集め、6年にも及ぶ人気ドラマとなる。 |
| 1976年にはブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。 |
| この年リリースされた「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く実際はシングル「横須賀ストーリー」の2ヶ月前に発売されたオリジナル・アルバム『17才のテーマ』に収録の「木洩れ日」と「碧色の瞳」で宇崎夫妻の提供曲を歌っている。 |
| その後、宇崎夫妻の提供曲はシングル、アルバムを合わせると69曲に及んだ。 |
| 結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。 |
| この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく百恵本人だった。 |
| 1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』では紅組のトリを務めた。 |
| ポップス系のトリは、同年白組のトリを務めた沢田研二と共に初めてのことであった。 |
| また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初。 |
| その記録は未だに破られていない。 |
| 所属事務所「ホリプロ」が東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。 |
| 1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に現代を象徴するスターとして語られた。 |
| 写真家篠山紀信は百恵のデビュー当時から被写体として何万枚も撮り続けて来たが、度々、印象的な写真を発表し、注目を集めた。 |
| 1970年代に篠山が最も多く撮影した女性は百恵であり、「それは時代が山口百恵を必要としていたから」とし、百恵を「時代と寝た女」と称した。 |
| 当時の人気作詞家だった阿久悠は、『スター誕生!』の審査委員長であったが、同番組出身である百恵には作品を一切提供していなかった。 |
| その理由のひとつとして、「当時は桜田淳子に(詞を)書いていたから、同系統の歌手には書かないことにしていた」と、阿久自身が述べている日本テレビ『スーパーテレビ情報最前線』-「独占公開!山口百恵ピンク・レディーの真実“スター誕生”物語」2000年11月20日放送。 |
| 2008年に日本テレビ系で放送されたドラマ『ヒットメーカー阿久悠物語』では、『スター誕生!』のテレビ予選で百恵に対して阿久が「妹役のようなものならいいけれど、歌はあきらめたほうがいいかもしれない」と評したことで、「そのことに傷ついた百恵は作品の提供を阿久に求めなかった」という話に脚色されているが、阿久自身の著書『夢を食った男たち』では前述のオーディションでのエピソードについても率直に記しており、また百恵の魅力についてもかつての倉本聰との対談を差し挟んで語られている。 |