| 1967年に福岡県議会議員に当選。 |
| 当時から演説では並はずれた弁舌で聴衆を引きつけ、大いに期待される存在であった。 |
| この頃に中曽根康弘に見出され、1969年の総選挙に無所属で出馬するも落選。 |
| 浪人生活一時期、シュウマイ屋を開き、シュウマイを「駅弁」として売り歩いたこともあるが、上手く行かずに畳んでいるを経て、1972年に衆議院に初当選。 |
| 同年輩の自民党議員の中では数少ない、非世襲の叩き上げで、防衛族として頭角を現していった。 |
| 防衛庁長官、建設大臣を歴任する。 |
| 1985年、中曽根首相がドイツのボン・サミットに出席した際、山崎は官房副長官として同行。 |
| 中曽根はレーガン米大統領・ゴルバチョフソ連書記長・サッチャー英首相・ミッテラン仏大統領・コール西独首相と個別に首脳会談を行った。 |
| この時、山崎は会談内容を全て記録した上で編集し、同行記者団に発表する重責をこなした。 |
| なお、ブリーフィングする際には、外務官僚の手を借りずに自分で行い、中曽根の意図を汲み取って国際世論をリードする内容にすることを心掛けていた。 |
| 1990年ごろから、旧経世会主導の自民党の政治運営を批判し、小泉純一郎、加藤紘一とともに、YKKを結成して活動していた。 |
| 1995年に、橋本龍太郎自民党総裁の下で自民党政調会長に就任。 |
| 1998年に、旧渡辺派から独立し、近未来政治研究会(山崎派)を結成。 |
| 1999年、自民党総裁選に出馬し首相の座を狙う。 |
| 総裁に選出されなかったものの小渕恵三、加藤紘一に次ぐ51票を集め3位であった。 |
| これ以降、自民党総裁の有力候補として注目される。 |
| 2000年に森内閣の加藤の乱で倒閣に失敗し、加藤とともに政治生命の危機とも言われた。 |
| しかし、自民党主流派による山崎派への猛烈な切り崩し工作に遭ったにも関わらず、山崎派内の議員で山崎を裏切る者は殆どいなかった。 |
| このことから、多くの脱落者を出して派閥分裂を招いた加藤と比較して、山崎の人望や求心力は党内からも高く評価され、翌年以降の復権につながっていった。 |
| 2001年、YKKの盟友である小泉純一郎政権が成立すると、自民党幹事長に抜擢される。 |
| 小泉からは貴重な理解者として厚い信頼を寄せられ、党内基盤が弱い小泉を抵抗勢力から守る役割を担い、外交経験の乏しい小泉の貴重な補佐役としても活躍した。 |
| 小泉とジョージ・ブッシュ米大統領による日米首脳会談の地ならしを行い、東南アジアや中東諸国を歴訪するなどして奔走。 |
| アーミテージ米国務副長官や盧武鉉韓国大統領とも会談している。 |
| また、アメリカ同時多発テロ事件の際には、与党3党米国テロ事件緊急対策協議会の座長として自衛隊法改正について協議する等、外交・安全保障政策の分野でも活躍した。 |
| こうした働きぶりで再び総裁候補に目されるようになったが、2003年9月、幹事長を事実上解任され副総裁に棚上げされる。 |
| 同年11月の衆議院選では落選、31年間保持していた衆議院議員の席を失い、副総裁も辞職。 |
| 2004年、小泉に乞われる形で民間人の首相補佐官に就任。 |
| 2005年の衆院補選に当選古賀潤一郎が学歴詐称の責を問われ辞職。 |
| して議席回復し、同年の郵政民営化法案を審議する特別委員会理事として小泉の郵政民営化に尽力していたが、郵政解散の頃から小泉とは距離を置くようになる。 |
| これ以降は、アジアとの関係をより重視する加藤紘一や福田康夫、古賀誠と連携を密にする。 |
| 2006年に政権に就いた安倍晋三とは、対北朝鮮政策を巡って度々対立。 |
| 安倍の圧力に傾倒した外交姿勢では、日本の孤立化を招き、国益を損ねるとして批判した。 |
| 2007年1月、北朝鮮を電撃的に訪問し、行き詰まった北朝鮮の核問題や拉致問題の状況打開を図る。 |
| 平壌で北朝鮮の宋日昊・日朝国交正常化交渉担当大使と会談。 |
| 北朝鮮の核放棄や拉致被害者の日本帰国を迫ったが、実現には至らなかった。 |
| 2007年、安倍政権が崩壊すると、ポスト安倍に福田康夫を支持した。 |
| 福田政権が成立すると、外交調査会長に就任、引き続き外交や安全保障政策を中心に活動を行う。 |
| 自民党が大敗した2009年の衆議院選で、再び落選する。 |
| しかし、議席の有無に関係なく、山崎派会長職を派閥結成以来一貫して任されている。 |
| 2010年夏の参院選に比例区からの立候補を目指していたが、自民党の定年制度により公認されなかった。 |
| 2010年3月頃には、国民新党代表亀井静香に同党入党を前提とした内閣参与入りを要請されたが、即時拒否している上野央絵「 |