| 実家は、当時の南海ホークスの練習場があった中百舌鳥球場の前でパン・菓子屋を営んでおり、南海選手から子供時代の山本が可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。 |
| 1981年8月26日、宇野ヘディング事件で打球を放ったのは山本功児である。 |
| 現役当時、法政大学の大先輩で広島東洋カープの4番打者山本浩二と同姓同名であったため、主に広島戦で『偽コージ』と野次を飛ばされることが多々あった。 |
| また、ジャイアンツ内でも山本幸二という同姓同名の捕手が在籍していたため区別するのが困難であった(背番号も功児と一番違いの43番)。 |
| 『偽コージ』と呼ばれた事に対しては、「偽者と野次られるのも、同姓同名の偉大な先輩がいてこそ」と、山本浩二への尊敬の念も含めて答えていた。 |
| 巨人の4番を20打数以上務めた人物の中では最高打率(29打数11安打、打率.379)である。 |
| 巨人選手時代、控えとなる場合が多い中、元同僚で阪神へ移籍した小林繁には抜群に相性が良く、小林が登板する試合にはフル出場する事が多かった。 |
| 44という背番号については、「ハンク・アーロンと同じ番号で気に入っている」と言い、巨人時代、活躍を認められて小さい番号に変更する話もあったものの拒否し、ロッテ移籍後も同じ番号を背負い続けた。 |
| 好きな歌はフランク・シナトラで有名なマイ・ウェイ。 |
| カラオケで披露する時、決まって最後のフレーズを「♪~私には愛するロッテがあるから」と変えて歌っていた。 |
| ジャイアント馬場のファンでサインを貰い少年の様に喜んでいた一幕があった。 |
| 人情味があって熱血漢な性格である。 |
| ロッテ監督時代、日本ハム戦で、相手の野次に対し、大島康徳監督とベンチ越しで野次の応酬をしていた。 |
| 2003年のシーズン最終戦、当時のフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きたとき「何で最後の試合の前に…。 |
| こんなことがあってはいかん」という怒りのコメントを述べている。 |
| このとき山本本人は既に解任が決まっており彼自身も最後の試合であったが、このように部下への気遣いから怒りを顕にするような性格であった。 |
| 現役最終年となる88年の選手兼任打撃コーチに始まり、二軍打撃コーチ、二軍ヘッド、二軍監督、一軍打撃コーチ、一軍ヘッド、一軍監督と指導者としてのすべてのポジションを経験するという稀有なキャリアを持つ。 |
| 特に巨人復帰した2004年の二軍ヘッド(のちに打撃コーチ兼任)というポジションは通常ありえない役職のため、今後同じキャリアを積む者は現れない可能性が高い。 |
| ちなみにこの二軍ヘッドという役職はすでに組閣を終えた後に、当時の堀内恒夫監督がどうしても復帰させたい、としたため急きょ作ったもの。 |
| 翌05年には一軍ヘッドに昇格した。 |
| コーチ、監督時代、1時間でも2時間でもつきっきりで打撃指導するなど指導熱心であった(スタンドのファンから「山本イズム」と書かれた垂れ幕が掲げられた)。 |
| しかし、その一本槍の性格がゆえに、監督になってから、一打席ヒットが出ないだけで、すぐに選手のバッティングフォームを変えさせようとするなどして、首脳陣との軋轢が生じ、オフに退団するコーチが多かった実例として、ヘッドコーチが広野功→袴田英利→醍醐猛夫→平野謙→高代延博と、就任以来毎年のように交代していた。 |
| 黒木知宏が浦和で怪我と闘っていた時期、マスコミに復帰時期を尋ねられ、「練習してない人間を一軍に上げるわけにはいかない」と発言した。 |
| 成績は低迷したが、上記の性格もあり選手からも慕われていた。 |
| 特に、山本に見出され巧打・巧守の一塁手として主力選手に成長した福浦和也は子供の名前の一部に「功」の字を入れるほどである。 |
| 2005年5月18日の対広島戦において、小林雅英が150セーブを達成したとき、ヒーローインタビューで「山本監督に感謝しています」と発言があった。 |
| ロッテ退団が決まった2003年の最終戦では、選手側から「試合後に監督を胴上げしよう」という提案があった。 |
| そして試合終了後、胴上げをするべく選手達がベンチから出ようとしたところ、山本は「胴上げは次の監督にやってあげてくれ。 |
| ありがとう」と涙ながらに固辞。 |
| そして2年後(2005年)、チームは31年ぶりのリーグ優勝を果たし、次期監督ボビー・バレンタインの胴上げが実現した。 |